桜木村(読み)さくらぎむら

日本歴史地名大系 「桜木村」の解説

桜木村
さくらぎむら

[現在地名]稲沢市桜木町・桜木宮前さくらぎみやまえ町・朝府あざぶ

三宅みやけ川西岸の自然堤防上にあり、東は稲葉いなば村に接し、人家は村の北東に集中している(天保村絵図)。元応二年(一三二〇)の中島承念譲状案(妙興寺文書)に「一所参段 桜木」とあるのが初見。嘉慶三年(一三八九)足利義満が大興だいこう寺に、祐康(土岐頼雄)の寄進した寺領を安堵した下知状(吉田文書)に「尾張国草部保并桜木散在事」とみえる。天正三年(一五七五)織田信長が代官祖父江五郎右衛門らに道根どうね横野よこの(萩原古川堤)の修築を命じた朱印状(氷室家文書)や、同一一年織田信雄が杉浦五左衛門らを奉行として一二ヵ郷に堤築造を命じた朱印状(杉浦家文書)に桜木とみえる。

桜木村
さくらぎむら

[現在地名]高城町桜木

大井手おおいで村の西に位置し、北部東岳ひがしだけ川が西流する。大井手村境から当村の西の高木たかぎ(現都城市)へ延びる薩摩街道は、当村で大井手村と穂満坊ほまんぼう村の境を通る高岡たかおか往還を分岐する。鹿児島藩領で高城郷に所属(「三州御治世要覧」など)。江戸時代の表高については、日向国覚書や寛文四年(一六六四)の諸県郡村高辻帳などで高六〇一石余。内高については、「三州御治世要覧」では高一千三五石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報