桐ヶ谷村(読み)きりがやむら

日本歴史地名大系 「桐ヶ谷村」の解説

桐ヶ谷村
きりがやむら

[現在地名]流山市桐ヶ谷

下花輪しもはなわ村の北に位置し、西を江戸川に画される。同川に沿って南下する舌状台地の東側に展開する低地を境に大畔おおぐろ村。桐ヶ谷の地名は近世初頭まで当村および近隣の谷津やつ村・貝塚かいづか村・きり谷南やみなみ村・桐ヶ谷北村・小屋こや村・下花輪村を合せた地域の総称として用いられていたと思われる。これらの村々はのちに桐ヶ谷七ヵ村などとよばれた。その後村切が進み、当村および谷津村・貝塚村を合せて桐ヶ谷村とよんでいたが、元禄(一六八八―一七〇四)頃に谷津・貝塚の両村は分村する。この両村分村後の狭義の桐ヶ谷村が当村にあたるが、両村と当村とは耕地も錯綜していて、地方の諸史料においても三ヵ村の村名の用い方に混用がみられた。分村後、この三ヵ村は桐ヶ谷三ヵ村とよばれたが、三ヵ村を合せて単に桐ヶ谷村とよぶ従来の呼称も残っていた。

「本土寺過去帳」(下・二二日条)に「妙田入 応仁二戊子五月 小田八郎 キリカヤ」とある。また同帳によると文亀二年(一五〇二)一月二八日平内匠助蓮寿は「桐谷」において誅せられている。

桐ヶ谷村
きりがやむら

[現在地名]品川区西五反田にしごたんだ三―八丁目・荏原えばら一丁目

上大崎かみおおさき村・下大崎村・谷山ややま村などの南、目黒川右岸に位置し、東は谷山村の飛地を挟んで居木橋いるぎばし村、南から南西は戸越とごし村、下目黒しもめぐろ(現目黒区)。村の東部を中原なかはら往還が通る。「南浦地名考」は桐ヶ谷は「霧がやつ(谷戸)」で、霧が多い谷筋であることから付けられた名であるとしている。当村は品川領に属し、馬込まごめ領にも同名村があるため、馬込領桐ヶ谷村(現大田区)を「小桐ヶ谷村」とよんで区別したという(東京府村誌)。村の南部は丘陵地、北部はやや低地で谷間が多い地形である。溜池の多いところでもあった。貞応二年(一二二三)六月二〇日の関東下知状(田代文書)に品河清実・清経父子が地頭職をもつ一所として「南品川郷内桐井村」がみえ、当地に比定する説があるが確かではない。

田園簿に村名がみえ、田方八二石余・畑方八五石余、幕府領

桐ヶ谷村
きりがやむら

[現在地名]大田区中央ちゆうおう四―六丁目・南馬込みなみまごめ六丁目・池上いけがみ一―二丁目

池上村(下池上村)の東に位置し、南は堤方つつみかた村。田園簿に村名がみえ、田方二五石余・畑方三一石余、旗本山本領。元禄郷帳では高六七石余。「風土記稿」によれば家数一五、旗本山本領。多くは畑地で、耕作に不適な土性であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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