栃木町(読み)とちぎまち

日本歴史地名大系 「栃木町」の解説

栃木町
とちぎまち

[現在地名]栃木市万町よろずちよう倭町やまとちよう室町むろまち旭町あさひちよう本町ほんちよう出町でちよう城内町じようないちよう一―二丁目・神田町かんだちよう沼和田町ぬまわだちよう今泉町いまいずみまち一―二丁目

現市域の南東部に位置し、西境を南流する巴波うずま川は町の南西部で九十九曲くじゆうくまがり用水を分流、南東部で杢冷もくれい川を合せて南下する。近世初頭には領主皆川氏の栃木城の下に城下町を形成したが、慶長一四年(一六〇九)信濃飯山いいやま(現長野県飯山市)にあった皆川広照の除封により栃木城は破却、城下町としての性格は失われる。しかし例幣使街道宿場町および栃木河岸を有する舟運の拠点として、江戸方面と、後背地ともいうべき日光・足尾あしお、さらに南会津方面などの山間地域を結ぶ商業町として栄えた。慶安郷帳・元禄郷帳・天保郷帳ともに栃木町として高付されているが、元禄五年(一六九二)栃木城内村明細帳(岸忠一文書)など史料上は栃木城内村として記されることもあり、町方と村方は分れ、それぞれ名主以下の役人が置かれていた。栃木城内村は狭義の栃木町の東に位置し、栃木城の築かれた地である。町の北は街道沿いに平柳ひらやなぎ村・嘉右衛門かえもん新田村大杉おおすぎ新田が続き、南の沼和田村なども含め町続きになっていた。なお史料上栃木の栃の字は杤と記されることが多い。

〔成立〕

天正一九年(一五九一)の徳川家康朱印状写(御朱印留)に、円通えんつう寺への寄進地として栃木之郷のうち一〇石とあり、宗要集松吟仏帖(日光天海蔵)に天正九年栃木円通寺とみえるが、この栃木は近世の栃木町周辺の村を含む範域であったとされる。「吾妻鏡」正嘉二年(一二五八)七月一〇日条に記す「下野国栃木郷事」は栃本とちもと郷トチモトゴウ(現安蘇郡田沼町)をさすとみられる。また天正期末の北条氏人数覚書(毛利家文書)や「関八州古戦録」などにみえる「とちき城」「栃木」などは現下都賀しもつが大平おおひら町境の川連かわつれ城であると考えられる。栃木町の成立時期については、円通寺過去帳覚書(同寺蔵)に天正一四年「杤木町立初ル」とあり、皆川みながわの山城を拠点としていた皆川氏が巴波川の水運を利用しうる当地に築城し、それに伴って町場が形成されていったことをうかがわせる。とすれば栃木町は栃木城下のうち町人が配された地とみられる。もっとも栃木城築城を天正一九年とする説があり、同一四年からの町立てを城下町としてではなく、舟運を軸に形成されたものとも考えられる。いずれにしても皆川広照が町形成に努めたことは、円通寺や町総鎮守の神明宮の当地への移転などによって推定しうる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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