柳津村(読み)やないづむら

日本歴史地名大系 「柳津村」の解説

柳津村
やないづむら

[現在地名]津山町柳津

北上川に南沢みなみさわ川が合流する地点にあり、西は登米とめ鴇波ときなみ(現豊里町)、北は黄牛きうし村、南は桃生ものう樫崎かしざき(現桃生町)に接する。村名は村鎮守の虚空蔵堂を建立した所を大柳津おおやないづといったので、これによるという(安永風土記)。山内首藤氏の滅亡を貞享三年(一六八六)に記した永正合戦記(「河北町誌」所収)によれば、永正八年(一五一一)石巻日和山いしのまきひよりやまに拠った葛西宗清が牡鹿おしかみなと(現石巻市)を出発、遠島としま(現牡鹿郡)を経て海上から本吉郡(現志津川町あたりか)に着岸、山内首藤氏の出城、桃生郡合戦崎かつせんざき(現桃生町の樫崎館跡に比定)を攻めたとある。この時の葛西氏の陣将のうちに柳津甲斐守通継がいる。首藤氏の反撃により葛西方は敗走、「悉ク柳津山中虚空蔵ノ辺ニ奔リ入ツテ隠ル」とある。翌九年にも「日々元良・桃生ノ辺界ニ戦フ(中略)柳津・長江ヨリ桃生郡合戦場ニ向ツテ攻メ入リ」などとあり、戦国期には柳津村は葛西氏支配の要衝の一つであった。「多聞院日記」永禄九年(一五六六)五月二三日条に「奥州柳津虚空蔵」とあるが、当地とは断定できない。

正保郷帳に田一三二貫九〇六文・畑一五貫一六四文とあり、ほかに同所新田四貫九五〇文がある。「安永風土記」によれば田一四一貫五九一文・畑二〇貫九九八文(うち茶畑三五二文)で、蔵入は一九貫二九八文、給所は一四三貫三〇一文(田代畑代合計一〇文不足)、人頭二五九人(うち寺三・修験一)で、このうち寛永一八年(一六四一)の竿答百姓は一二一人であった。

柳津村
やないづむら

[現在地名]柳津町柳津・宮東みやひがし蓮池はすいけ丸野まるの北塚きたづか南塚みなみづか本郷ほんごう梅松うめまつ東塚ひがしづか栄町さかえまち笠松かさまつ上柳川町かみやながわちよう下柳川町しもやながわちよう

現柳津町の東部を占めた羽栗はぐり郡の村。北はさかい川を挟んで厚見あつみ茜部あかなべ(現岐阜市)など、西も境川を挟んで同郡佐波さば村。近世初期までは境川が木曾川本流で、同川が尾張と美濃の国境であった。「濃州徇行記」に「此村は本郷西屋敷、東屋敷とわかれ、支村は北須賀、南須賀、東須賀と云、大村なれども水場故貧村也、南より西へ回り囲堤なき故逆川より北及村の方へ水押上、又境川は各務野の悪水落来り両方の押上水にて田地敗傷する事多し、(中略)農事を専営とす、其内菅大臣島木綿織屋も余力にするものあり、(中略)本田は村の東南にあり、用水は境川よりかゝる、子、午、申新田の地は村の西、北、東三ケ所にわかる」とある。

神鳳鈔」の尾張国に伊勢内宮領「田代喬嶋楊津御厨」が載り、楊津は当地に比定される。天正一五年(一五八七)正月吉日の伊勢神宮修理料并供田注文(慶光院文書)に柳津がみえ給人は池田照政であった。

柳津村
やないづむら

[現在地名]柳津町柳津

只見ただみ川下流右岸にあり、村中で銀山ぎんざん川が合流する。北は細越ほそごえ村、東は山岳、南は阿久津あくつ村、西の対岸には小巻こまき村。大同二年(八〇七)徳一が「稲河荘楊津円蔵寺」を創建したと伝え(会津旧事雑考)、以来虚空蔵尊を中心とする信仰に守られた門前町として発達した。村名は空海が海に流した霊木の末木が当地まで漂い、三本の楊木にかかったという伝説による。「会津旧事雑考」所収天喜五年(一〇五七)六月三日の八幡宮神役目録に「朝立柳津矢鏑流馬一番としかへ」「柳津僧饌九膳」などとある。「異本塔寺長帳」永正一三年(一五一六)条に「会津柳津村焼三月廿八日 堂寺残其外ノ塔ヲ始脇寮共民家不残炎上」とある。

柳津村
やないづむら

[現在地名]福山市柳津町

松永まつなが村の東に位置し、北は村、東南は藁江わらえ村に接し、西南は松永湾に面する。北東に竜王りゆうおう(二二一・三メートル)があり、集落はその西南麓の海岸部、および藁江村より西流するしん川沿いに集まる。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳では一六二石余、元禄一三年(一七〇〇)備前検地で三八五石余と大幅に増えた。「備陽六郡志」によると内訳は田方二一五石余(二一町五反余)・畠方一六九石余(二四町余)。「福山志料」はほかに塩田七町四反六畝余を記す。戸数二三七・人口一千九八、牛八〇、船大小四を記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報