松江城跡(読み)まつえじようあと

日本歴史地名大系 「松江城跡」の解説

松江城跡
まつえじようあと

[現在地名]松江市殿町

松江市街を南北に分ける大橋おおはし川西端、宍道湖との境の北側にある平山城跡。城は標高二八・四メートルの亀田かめだ(現在の城山)とよばれる丘陵に築かれ、千鳥ちどり城ともいう。現在、城跡の大部分は城山じようざん公園となっている。慶長年間(一五九六―一六一五)堀尾吉晴が築城し、以後堀尾・京極・松平三家の松江藩主の居城となった。城の郭には時代によって変化がみられるが、丘陵中央の最高所に本丸、その北から東にかけて腰曲輪、本丸の東に中曲輪、さらにその東に一段低い二の丸下ノ段(外曲輪)、本丸の南に二の丸上ノ段、本丸の西に後曲輪、その北に外曲輪、腰曲輪の北にも外曲輪を配し、これらを内堀が取巻き、南東端に大手門がある。さらに二の丸の一段下の南方に堀に囲まれた三の丸があった。正保城下図(内閣文庫蔵出雲国松江城下図)によると、城は平山城、本丸は東西三〇間・南北六八間、二の丸は東西五五間・南北五八間、三の丸は東西七一間・南北六二間、二の丸下ノ段は東西五三間・南北一八〇間。

松江藩の大工頭を勤めた竹内家に相伝された竹内右兵衛書付(松江城山事務所蔵)には、一七世紀末頃の松江城の実測の記録が載る。天守閣は高さ約三〇メートル、五層六重で前面に付櫓があり、下見黒板張りで白壁が少なく、壁面には隠狭間(鉄砲・弓矢用)が計九四ヵ所もある。石落しも多数設けられ、内部の階段は軽くて引上げやすい桐材が使われ、中央に深さ二四メートルの井戸が掘られるなど実戦を想定した構造で、安土・桃山期の様式を伝える城郭建築史上極めて貴重な遺構である。天守閣は国指定重要文化財、松江城跡地は国指定史跡となっているが、三の丸跡地は県庁舎の敷地となっている。

〔築城〕

松江築城は慶長八年に幕府の許可を得て同一二年から着工し、同一六年に一応の完成をみる(「雲陽大数録」など)。堀尾吉晴の普請上手はよく知られ、「太閤記」の著者小瀬甫庵が設計を担当し、土木工事の名手といわれた稲葉覚之丞も参画したといわれるなど、当時の築城技術の第一人者がかかわった。吉晴は亀田山北部に仮殿を造って工事全体の指揮監督に当たり、石工・大工・泥工・瓦工などは大坂築城の経験者を招いたといわれ、天守の瓦のなかには「大坂瓦師太右衛門」の銘のあるものも残っている。工事の第二年度は本丸の石垣工事などで、石材のほとんどは近隣の大海崎おおみざき矢田やだなどから川舟で運び、扇面式前反法といわれる独特の積石技術で築造した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報