松山新田村(読み)まつやましんでんむら

日本歴史地名大系 「松山新田村」の解説

松山新田村
まつやましんでんむら

[現在地名]新居町浜名はまな

橋本はしもと村の南、浜名川流域に位置し、西は大倉戸おおくらど新田村、南は遠州灘。慶安三年(一六五〇)橋本村に居住していた、もと中泉なかいずみ(現磐田市)の商人野口甚九郎直勝(号は休可)が開発したという(「松山古事記」松井家文書)。明暦二年(一六五六)検地を受け二二石余が打出され、延宝三年(一六七五)の検地で新畑三石余が検出されて合計二六石余となった(同古事記)元禄郷帳・天保郷帳でも高二六石余、いずれも橋本村枝郷とある。

松山新田村
まつやましんでんむら

[現在地名]巻町松山新田

北国街道の西の角田浜かくだはま村に至る道に沿って集落があり、上堰うわせき潟北部の湿地帯の開発により成立した。街道東に松野尾まつのお村が対する。開発年は不詳であるが、慶安二年(一六四九)長岡藩の検地を受け、当初は又左衛門新田と称したという(皇国地誌)。元禄郷帳には松野尾村枝郷とし、村高二一六石三斗余。元禄一一年(一六九八)の榊原式部大夫殿領分四万石拾ケ組絵図面(霜鳥家文書)では幕府領となっている。明和二年(一七六五)の石瀬代官所村々高辻帳(北条一也氏蔵)では赤塚組に属する。文久元年(一八六一)の郡中高辻帳(河村家文書)では出雲崎いずもざき代官所支配。文政三年(一八二〇)の村明細帳(新潟大学蔵)によれば、高二三四石余・反別二六町一反三畝余、うち本途一六九石八斗余、反別一五町七反四畝余のうち下田が一〇町二反二畝を占める。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報