東麦生村(読み)ひがしむぎおむら

日本歴史地名大系 「東麦生村」の解説

東麦生村
ひがしむぎおむら

[現在地名]田主丸町益生田ますおだ

益永ますなが村の西、通称山辺やまべ往還北側に西麦生村と並んで位置する。耳納みのう山地北麓から巨瀬こせ川左岸まで東・西両麦生村の耕地が交互に広がっていた(上三郡絵図)一里塚があった(在方諸覚書)中世は西麦生村と合せ麦生と称し、上道に町場(古町)があったという(石原家記・寛延記)。耳納山地を越えて八女やめ郡に至る干懸かんかけ峠越の道がある。応安七年(一三七四)一一月、南朝征西府を高良こうら山から肥後菊池に追撃した九州探題軍の一隊は、筑後川を渡河して石垣いしかき・麦生、黒木くろぎ(現黒木町)へと軍を進めており、この道筋を通ったとみられる(永和元年七月日「深堀時広軍忠状」深堀文書/南北朝遺文(九州編)五)。寛正六年(一四六五)二月、筑後奪回を図る菊池勢を撃退した大友勢も、麦生・鷹執(鷹取)などで作戦を展開している(一〇月一七日「宝勝院光憧書状」大友文書/大分県史料二六)。当地には在地領主麦生氏がおり、南北朝期に麦生越後介の名がみえる(正平一三年六月二九日「征西将軍宮令旨」太宰府天満宮文書/南北朝遺文(九州編)四)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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