東重胤(読み)とう しげたね

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「東重胤」の解説

東重胤 とう-しげたね

?-? 鎌倉時代武将
東胤頼の子。下総(しもうさ)香取郡(千葉県)東荘,三崎(海上(うなかみ))荘の領主。元久2年(1205)北条義時にしたがい畠山重忠を討つ。和歌をよくし,源実朝近臣としてつかえる。建保(けんぽ)7年実朝が暗殺された鶴岡八幡宮参詣時にも供をしていたという。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の東重胤の言及

【東氏】より

…下総出身の中・近世武家。平姓千葉氏族。千葉常胤の六男六郎大夫胤頼(たねより)を祖とする。東胤頼は上西門院(鳥羽天皇の皇女統子)に仕え,下総国香取郡東荘を領して東氏を称した。神護寺僧文覚(もんがく)と師弟の契を結び,また源頼朝の挙兵(1180)に際し長兄胤正の子成胤とともに下総国の目代を討った。1185年(文治1)頼朝から父常胤に与えられた三崎荘を父から譲与された。胤頼の子重胤は3代将軍源実朝に仕え〈無双の近仕〉と称された歌人で,その子胤行(素暹)は藤原為家(藤原定家の子)の娘婿となり,二条流の歌人として名高い。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」