東海老坂村(読み)ひがしえびさかむら

日本歴史地名大系 「東海老坂村」の解説

東海老坂村
ひがしえびさかむら

[現在地名]高岡市東海老坂

二上ふたがみ山麓の西、守山もりやま町の北方に位置。北の氷見ひみ方面へ向かう海老坂峠は難所として知られた。かつては西海老坂村と一体で海老坂村と称していたが、近世初期に分村独立した。神保氏張守山在城時の天正七年(一五七九)一一月一六日海老坂藤兵衛は後雲こううん寺領一四俵余を安堵された(「神保氏張安堵状」上坂家文書)。同一一年七月二六日海老坂村肝煎小四郎は神保氏張に肝煎分一七三俵を除いた年貢米納入した(「神保氏張年貢米請取状」木倉氏筆写史料)。その後前田利長は越中三郡の中心を守山に置き、守山城を中心とした城下町が形成された。天正一九年検地が行われ、五町三反余のうち作付地三町七反余、一反につき二俵一斗三升の年貢米が惣百姓中に賦課された(「検地打渡状」上坂家文書)。慶長二年(一五九七)海老坂村の検地出高二〇〇俵・年貢米五八俵(「検地打渡状」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報