東浜村(読み)ひがしはまむら

日本歴史地名大系 「東浜村」の解説

東浜村
ひがしはまむら

[現在地名]高松市松島町まつしまちよう一―三丁目・花園町はなぞのちよう一―三丁目・福岡町ふくおかちよう一―四丁目・松福町まつふくちよう一―二丁目・多賀町たがちよう一―三丁目など

高松城下の東端を流れる杣場せんば川の東側に位置し、北は瀬戸内海に臨む。中世末まで高松城下およびその周辺の地域は野原のはら郷と称されたが、生駒親正が天正一六年(一五八八)高松城を築いた時、城の東側の海辺を東浜村、西側を西浜村としたという(政要録)。城下に隣接し、生駒氏時代から侍屋敷や商家があり賑った(生駒家始末興廃記)。寛永一七年(一六四〇)の村高は西浜村を含めて七九四石余(生駒領高覚帳)。前年には西浜を含めて二八石余が屋敷地のため引高となっており(同帳)、城下への編入が進んでいた。同一九年の東浜・西浜(城下浜ノ丁・西浜町分も含むと考えられる)の人数は一千九八三(増補高松藩記)。同年には東浜から塩小物成として塩四四五俵八升、東浜新浜から塩三九俵一斗八升と銀四三匁が納められている(高松領小物成帳)。生駒氏時代屋敷割図に、高松城下の東端「東かこ町」のすぐ東側に「塩焼浜」と記されており、この地域から塩小物成が納められたと推測される。

東浜村
ひがしはまむら

[現在地名]中津市東浜

中津平野の海岸中央部に位置し、東はおお新田村、西は牛神うしがみ村、南は一松ひとつまつ村、北は新田の浜。村の南から西へ矢流やな川が曲流し、海へ注ぐ。元亨元年(一三二一)八月一七日の藤原重連田畠去状案(永弘文書)に「壱町(口)坪作人宮部六郎次らう□所弐段横枕作人在浜三郎九郎、□□弐段浜田作人同所小三郎」とみえ、くちつぼ横枕よこまくらは今も東浜の小字として残り、「在浜」は東浜と考えられる。応永一七年(一四一〇)八月の某証状案(同文書)によれば、「口坪田地一町」の地は野仲のなか郷に属し、光隆こうりゆう寺領で、先年高潮で五段を失ったとある。

東浜村
とうのはまむら

[現在地名]七尾市東浜町

富山湾に東面し、北は熊渕くまぶち川を境に黒崎くろさき村・花園はなぞの村・山崎やまざき村、中央部を東浜川が貫く。東ノ浜村とも記す。地名は黒崎村せきに堂塔があったことに由来し、もと堂の浜・塔の浜と記したという(鹿島郡誌)。初め加賀藩領。土方雄久知行目録に村名がみえ、慶長一一年(一六〇六)から高三六七俵余が同氏領、うち四割は百姓得分。領主の変遷は八幡やわた村に同じ。正保郷帳では高一九八石余、田方七町三反余・畑方五町九反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android