本戸村(読み)もとどむら

日本歴史地名大系 「本戸村」の解説

本戸村
もとどむら

[現在地名]笠間市本戸

吾国わがくに山の北麓にあり、北は来栖くるす村、東は三峰みつみね山を境に北吉原きたよしわら村。弘安大田文に東郡として「本殿廿丁五段」とある。中世は笠間氏の支配下にあり、村内に笠間氏三代盛朝の三男本殿弥三郎高朝が居住した本戸城跡(田利御城)がある。

江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。茨城郡山内南郷村差出帳(石井家文書)によると慶安二年(一六四九)検地で村高一五〇八・二五三石となり、万治三年(一六六〇)・延宝四年(一六七六)の新開検地で合せて一〇四石余を打出す。延享四年(一七四七)の村差出帳(矢口家文書)によると村には四壁山二八八、堰二一、溜池五などがあり、戸数一二一(酒造家二)・人数一千五五、馬一二六。

本戸村
ほんどむら

[現在地名]輪之内町本戸

福束ふくづか輪中の北部に位置し、中村なかむら輪中堤沿いに集落がある。本堂村とも記す。豊臣秀吉から与えられた天正一六年(一五八八)一二月一二日の市橋長勝領知目録(内閣文庫蔵)に「弐拾八貫五百文 半分 本堂村」とみえる。慶長郷帳では本堂村とみえ、村高一二八石余、元和二年(一六一六)の村高領知改帳では本堂村とみえ、幕府領正保郷帳では田高六六石余・畑高六一石余。宝暦一三年(一七六三)大垣藩預所となり、幕末に至る(岐阜県史)。天保九年(一八三八)の村明細帳によると村高一二八石余、うち地不足・諸永引で残高九六石余、田四町四反余・畑四町六反余、家数二四・人数一二〇、中村川堤の長さ三〇〇間。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報