曾束庄(読み)そつかのしよう

日本歴史地名大系 「曾束庄」の解説

曾束庄
そつかのしよう

瀬田せた川が西から南へ流れを変えるその東岸、山間地にある曾束の一帯に比定される。近世は同川などにより滋賀郡・山城国と境する栗太くりた郡に属したが、禅定寺文書(以下断らない限り同文書)などにはしばしば「山城国曾束庄」とあり、山城国に属したと考えられる。庄境に三十六歌仙の一人猿丸大夫のものとされる墓があり、鴨長明が田上たなかみ河を渡ってその墓所を訪ねているが(方丈記)、「無名抄」には「たなかみのしもに、そつかといふ所あり、そこに猿丸大夫が墓有、庄のさかひにて、そこの券にかきのせたれば、みな知所なり」と記し、この墓が当庄の四至を示す示であったという。当庄の中世は南に連なる山並の向う山城宇治平等院末寺禅定ぜんじよう(現京都府綴喜郡宇治田原町)と激しい相論が展開される。

治承四年(一一八〇)五月一一日の皇嘉門院惣処分状(九条家文書)に京都最勝金剛さいしようこんごう院領山城「そつか」とみえ、甥で養子の九条良通に譲られている。当庄は大和国の猟師安泰が鹿を追って当地に至り、深山を開いて安興寺を建立したことに始まるという(文保元年一二月日禅定寺・曾束庄由緒注進状案)。治安年間(一〇二一―二四)藤原公季より法性寺殿藤原忠通に寄進され、忠通より妻宗子の建立した法性ほつしよう寺最勝金剛院に寄進され(建長二年「九条道家初度惣処分状」九条家文書)、当庄の権利の一部は留保されて娘の皇嘉門院に譲られたと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報