明珍派(読み)みょうちんは

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「明珍派」の意味・わかりやすい解説

明珍派
みょうちんは

甲冑工の家系。初め京都で栄え,のち各地へ広がった。その先祖武内宿禰といわれ,鎌倉時代に始って代々名のある甲冑を制作したという。膨大な系図があるが明らかでない。 14代高義以後は遺品から推してやや確実性がある。著名な 17代明珍信家は,兜の紀年銘から永正・天文年間 (1504~55) 頃まで盛んに制作したらしく,居住地も相模,上野,甲斐,信濃の各地にわたっている。明珍一派で鎌倉にいた政家,久家が仙台の伊達政宗に招かれて移住し,仙台胴と称する甲冑を作って有名になった。その他江戸時代末期には同派の甲冑師越前加賀水戸土佐姫路庄内など各地に分派し,鐔 (つば) などを作り名工を輩出した。

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世界大百科事典(旧版)内の明珍派の言及

【甲冑】より

… なお甲冑の工人は,古くは甲作(よろいづくり),鎧作と呼ばれ,近世には物具細工(もののぐざいく),具足細工あるいは鎧師,具足師などと呼ばれた。彼ら工人が銘を刻み,流派を唱えるようになるのは戦国時代にいたってからで,奈良の岩井派,春日派,紀州の雑賀(さいが)派,京都の明珍派などが隆盛となった。その中でも徳川将軍家のお抱え具足師となった岩井派の岩井与左衛門や,刀装具にも手腕を発揮した明珍派の信家などが著名である(図1)。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」