戸破村(読み)へわりむら

日本歴史地名大系 「戸破村」の解説

戸破村
へわりむら

[現在地名]小杉町戸破

小杉三こすぎさんヶ村の東、下条げじよう川右岸に位置し(一部は左岸)北陸街道が通る。地元ではヒバリ・ヒワリともいう。地名一帯泥沼の縁辺を田地割した辺割に由来するものと考えられる。中世は京都賀茂御祖かもみおや神社(下鴨神社)倉垣くらがき庄に含まれ、文明元年(一四六九)一一月日の某下知状(賀茂御祖皇太神宮諸国神戸記)に「倉垣庄之内戸破村」とみえる。倉垣庄内には多くの賀茂(加茂)社が勧請されているが、当地神川かみかわ加茂社は倉垣加茂神社と称され、庄内の総鎮守であったと伝える。

天正一一年(一五八三)八月佐々成政が発給した知行方目録(水越家文書)に「中郡へわつ村」とみえ、三千三〇七俵余の所が槻尾甚助に与えられている。慶長一〇年(一六〇五)前田利長は当村久助に市再興申付状(「小杉新町旧記書上申帳」松長家文書)を下付しているが、その文面に「中郡へわり村市事、如前々立候様ニ可申付候、市日の事も有来ことくたるへく候者也」とあるので、前田氏入部以前から当地には定期的な市が立っていたものとみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報