懸川(読み)かけがわ

日本歴史地名大系 「懸川」の解説

懸川
かけがわ

鎌倉時代より東海道の宿としてみえる地名。懸河・懸革・掛川とも書く。現掛川市掛川城跡付近一帯に比定される。地名の起源について、「宗長日記」に「此城をめくりて大成川あり、仍懸川といふにや、東西都鄙の大道なり」とある。「此城」は懸川城、「大成川」は大いなる川の意でさか川をさす。現仁藤にとう神宮じんぐう寺旧蔵の鰐口銘には天文一九年(一五五〇)年紀があり、「遠州佐夜郡下西郷懸河山神宮寺」とあって下西郷しもさいごうのうちであったことがわかるが、掛川市街地を庄の中心とする小高おたか御厨との領域的関係は明らかでない。

〔懸河を通過した人々〕

「源平盛衰記」巻二三に平維盛軍が治承四年(一一八〇)一〇月八日に「懸川の宿」に着いたとあるが、より確かな史料では「吾妻鏡」寿永元年(一一八二)五月一二日条に、日ごろ「懸河辺」に住んでいた伏見広綱が京都に馴れた者として推薦され、源頼朝の右筆となったとある。中世を通じて東海道を往来した人人の宿所や休息所としてしばしば現れる。鎌倉幕府の将軍では、建久元年(一一九〇)に源頼朝(「吾妻鏡」同年一二月二二日条)、暦仁元年(一二三八)と寛元四年(一二四六)藤原頼経(同書暦仁元年二月五日・一〇月二二日、寛元四年七月一七日条)、建長四年(一二五二)宗尊親王(同書建長四年三月二六日条、「宗尊親王鎌倉御下向記」)が宿泊または休憩している。建武二年(一三三五)と正平六年(一三五一)には足利尊氏の軍が宿泊し(「足利尊氏関東下向宿次・合戦注文」国立国会図書館所蔵文書、一一月二六日「足利尊氏御内書」榊原文書)、永享四年(一四三二)には足利義教の一行が富士遊覧の途上休息した(富士紀行・覧富士記・九条満家公引付)。連歌師宗長は懸川城主朝比奈氏との親密な関係もあってしばしば訪れており、大永六年(一五二六)と享禄四年(一五三一)には連歌会を興行した(「宗長日記」、「実隆公記」享禄四年閏五月一八日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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