志多賀(読み)したか

日本歴史地名大系 「志多賀」の解説

志多賀
したか

中世、三根みね郡内にみえる地名。少弐屋形があったという古府こふノ町と、舟党里とよばれるさきノ町からなり、古府ノ町に少弐教頼の墓という少弐塚(五輪塔)がある。応永六年(一三九九)正月一一日の宗貞茂宛行状(三根郷給人等判物写、以下断りのない限り同判物写)に「ミねの郡内さかくちきしたか村」とみえ、これら諸村の代官職が宗六郎に宛行われている。同九年五月謀反を起こした宗賀茂に対して、志多賀にいた宗頼茂仁位にい(現豊玉町)で合戦に及ぶものの、戦況が不利に傾いたため筑前に渡り、同年七月に宗貞茂が軍勢を引連れて比田勝ひたかつ(現上対馬町)で賀茂を討破っている(対州編年略)。地内の玉泉ぎよくせん寺に応永三〇年銘の宝篋印塔(安山岩質凝灰岩製)があり、妙林禅尼と陰刻される。ほかに室町初期と推定される五輪塔などがある。「朝鮮王朝実録」世宗七年(一四二五)五月庚午朔条に志高したか浦とみえ、浦の兵衛四郎および志高足常祐が日本国王使の要請で日本に送還されている。「海東諸国紀」では「時多浦三百五十余戸」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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