得蔵保・得蔵庄(読み)とくくらほ・とくくらのしよう

日本歴史地名大系 「得蔵保・得蔵庄」の解説

得蔵保・得蔵庄
とくくらほ・とくくらのしよう

現在の金沢市北西、大野おおの川あるいは犀川河口の臨海地にあったと考えられ、古代の加賀郡大野(和名抄)内に成立した。寛治三年(一〇八九)一〇月日の加賀国司庁宣案(醍醐雑事記)に「大野ママ得蔵保」とみえ、加賀守藤原家通は留守所に大野郷の一部であった当保を山城醍醐寺の庄園として寄進するよう命じている。このときの四至は「東限津屋寺西縄手、西限浜、南限河、北限湊」であった。湊とは古代加賀郡の郡津大野湊、津屋寺とは「延喜式」神名帳に載る大野湊おおのみなと神社の神願寺と解されるが、河については大野川・犀川とも流路の変遷があり特定することは不可能である。

寛治三年一〇月二日の藤原家通書状案によれば醍醐寺は従来高羽・治田両庄(いずれも比定地不詳)官省符庄として保有していた。しかし、両庄が衰微したため、当保がその代償となり、醍醐寺賢円が保司となって前年春以来開発に当たってきたものであった。なお高羽・治田両庄は延長八年(九三〇)三月二三日醍醐寺に寄進され、天暦七年(九五三)八月五日官省符庄となり、長和四年(一〇一五)一一月一〇日には不輸租田坪付が作成されたものの(文治二年四月八日醍醐寺宝蔵文書目録)、まもなく加賀国司によって収公されたらしい。

賢円は天仁三年(一一一〇)当庄領家に任じられ、同年六月三〇日の醍醐寺座主勝覚の下文によって賢円一門の庄務執行が認められた。在庁注文によると当庄は本田五〇町・不作田代五〇町で構成され、所当米は段別八斗、官物として段別三斗が寺納されていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報