式見村(読み)しきみむら

日本歴史地名大系 「式見村」の解説

式見村
しきみむら

[現在地名]長崎市式見町・向町むかえまち牧野町まきのまち園田町そのだまち四杖町よつえまち相川町あいがわまち見崎町みさきまち

福田ふくだ村の北西に位置し、北部に矢筈やはず岳・飯盛いいもり岳があり、海岸部に入江がみられる。地内に一里山が置かれた(慶安二年肥前国道法帳)中世彼杵そのき庄のうちで、三根みねの館跡は相川屋敷跡とともに中世の遺跡という。江戸時代は大村藩領外海そとめ地区に属する。慶長高帳では西方衆の知行。慶長一〇年(一六〇五)の大村領内高目録に式見村とみえ、高一七四石余で、田一〇町七反余・畠八町一反余、物成九六石余。慶長国絵図では高一七四石余。同一七年の総検地では高三〇〇石余となり(同一八年彼杵郡内検高目録)、朱印高も同高とされた(元和三年「大村純頼領知目録」大村家記)。元和八年(一六二二)のドミニコ会宛の大村ロザリオ組中連判書付に「しきミ村」のキリシタン「森掃部しゆすと」が署名。寛永五年(一六二八)キリシタン詮索の申渡しがあり、当村肝煎・問が署名した(「切支丹法度書」大村見聞集)正保国絵図では式見村として高一〇〇石余、正保郷帳(大村見聞集)では田二三二石余・畠六七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報