府内・日田往還(読み)ふない・ひたおうかん

日本歴史地名大系 「府内・日田往還」の解説

府内・日田往還
ふない・ひたおうかん

江戸時代に日田代官(永山布政所とも)と大分郡高松たかまつ(現大分市)に置かれた幕府代官(陣屋)を結ぶ道。高松陣屋から府内へは伊予街道を通り、府内から大分郡朴木ほおのき(現挟間町)・速見郡捏山ねじやま(現別府市)からもり(現玖珠町)を経て日田に至る。江戸時代、日田永山ながやまと大分高松の両役所を結ぶ固有の公的路線名称は存在しなかったが、「豊後国志」では府内城からの路程として玖珠くす郡森町までが玖珠郡森営路、森から永山布政所までを永山布政所路としている。「豊後国古城蹟并海陸路程」には府内からの路線を「筑前への大道筋」としており、このほかに「日田道」という呼称もみえる。日田道は高松と日田の両布政所間の路線に出会う脇道と考えられるが、日田への往還であったことから日田道の名称がついたものと思われる。

元禄豊後国絵図を基本として路程を詳しくみていくこととする。府内城下から笠和かさわ口を出て南に進むと堀切ほりきり峠がある。この峠は慶長年間(一五九六―一六一五)に府内藩主竹中重利によって開かれたといわれ、「余程坂急にして、牛馬は勿論、諸人通路難渋ニて別て雨天の節など、重荷等相附候牛馬は骨折、難渋の躰」(府内藩記録)という難所であったため、藩は安政六年(一八五九)峠の掘下げ工事を行った。峠を越えて井蕪いのかぶ村を過ぎると道は二つに分れ、南進すると肥後街道に合流、日田へは進路を西にとり、初瀬はつせ井路に架かる橋を渡り、永興りようご村、竹上たけのうえ村と進む。宮苑みやぞの村の手前で東院とい(現在の賀来川)を渡り、東院村に入る。府内より東院村までの地勢はほぼ平坦な道で、これから一里は上りとなる。野田のだ(以上現大分市)三船みふね村を経て、台地を上りつめたところが黒野くろの村である。黒野村からは赤野あかの(臼杵藩領)東行とうぎよう村・朴木村(以上現挟間町)と台地上を進み尾根伝いに速見郡に入る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android