広川(読み)ひろがわ

日本歴史地名大系 「広川」の解説

広川
ひろがわ

全長二〇キロ、有田郡内二位の河川。源の一は上津木かみつぎの西部丸畑まるはたに発し、上津木の中村なかむら鹿瀬ししがせ峠の北より流れてきた猪谷いだにの水を合せて上津木谷を東流する。他の一は金屋かなや修理川しゆうりがわとの境の山より源を発し、岩淵いわぶち滝原たきはらなど下津木谷を流れて上津木に入り西流して落合おちあいで合流、山間を小さく屈折しながら水量を増し、河瀬ごのせでは川幅も広くなる。前田まえだ井関いせきなど中流域の水を集め、殿との柳瀬やなせ東中ひがしなか名島なしまの各地の沖積平野を貫流する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「広川」の意味・わかりやすい解説

広川[町] (ひろがわ)

和歌山県中西部,有田郡の町。人口7714(2010)。広川下流に位置し,北西は紀伊水道,湯浅湾に臨む。広川河口南岸の広が中心集落で,江戸時代,紀州藩主徳川頼宣が広御殿を建て,寛文年間(1661-73)には大波戸(波戸場)もできて港町として発展した。房総半島や五島列島などへの出稼漁民も多く,特に九十九里浜のイワシ漁,銚子のしょうゆ醸造業の発展の基礎を築いた。現在はミカン栽培を中心とする農業が基幹産業で,花卉の栽培も行われる。紡績工場,しょうゆ工場もある。安政地震の大津波のときに村民を救い,第2次大戦前の国定小学国語読本に〈稲むらの火〉として記された浜口梧陵の出身地で,梧陵の築いた広村堤防(史)が残る。海岸は天洲松原として知られたリアス式海岸の景勝地で,西有田県立自然公園に属する。広八幡神社の本殿拝殿などや法蔵寺の鐘楼は重要文化財。JR紀勢本線,国道42号線が通り,阪和自動車道のインターチェンジがある。
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広川[町] (ひろかわ)

福岡県南部,八女(やめ)郡の町。人口2万0253(2010)。耳納(水縄)(みのう山地南西に続く洪積台地と,筑後川支流の広川,長延川沿いの沖積低地からなる。西部を国道3号線が南北に通る。主産業は農業で,米のほかイチゴ,ブドウ,ミカンなどの果樹,茶,野菜の栽培が行われ,とくにブドウは県有数の生産地である。特産物として久留米絣(かすり),竹細工植木などがある。九州自動車道のインターチェンジがあり,久留米・鳥栖テクノポリスの一角を占め,近年工業も成長している。町域南部から八女市北部にかけては人形原(にんぎようばる)台地とよばれ,八女古墳群(史)に含まれ,石人山(せきじんやま)古墳がある。
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