平郡(読み)へいぐん

日本歴史地名大系 「平郡」の解説

平郡
へいぐん

江戸時代、安房国にみえる郡。古代の平群へぐり郡、中世の平北へいきた郡・きた郡を継承する。北郡は近世初頭には公的な郡として用いられ、平郡と混用する時期を経て、正保郷帳の成立までには平郡が定着したとみられる。元和二年(一六一六)の安房国寺社領帳に平郡とみえるのが早いが、平群郡とする例もわずかながら確認できる(寛文四年「酒井忠直領知目録」寛文朱印留)。「寛政重修諸家譜」では「へい」の訓を付す。元和八年内藤清政が三万石で勝山かつやま(現鋸南町)に入封、平郡・長狭ながさ郡内を領知としたが、同九年除封。寛永二年(一六二五)二万石で再興するが、同六年廃藩。正保郷帳では佐倉藩領のほか、旗本三枝・石川領などがみえる。寛文四年(一六六四)当時郡内に若狭小浜藩領一九村があったが、同八年酒井忠国が同藩領のうち平郡内七千石を含む一万石を与えられ、勝山に陣屋を置いた。天和二年(一六八二)郡内などに五千石を加増、同三年忠胤の襲封に際して弟忠成に三千石を分知している。天明元年(一七八一)より館山藩稲葉氏領となる諸村があったが、同五年にも郡内などで加増されている。

江戸後期、房総沿岸の防備を担当することになった大名が安房国内などに領知または預地を与えられるが、担当の大名が頻繁に交替するため、村方にとって支配領主の変遷はめまぐるしかった。文化七年(一八一〇)郡内九ヵ村が陸奥白河藩領となり、天保一三年(一八四二)には郡内の七村、同一四年には四五村が武蔵忍藩領となっている(同一四年忍藩領郷村高帳)房陽郡郷考によれば、勝山藩領一八村(他領分を含む、以下同様)・館山藩領六村・忍藩領二五村・陸奥会津藩領二一村で、ほかに幕府領二村・旗本領三村と寺領があった。嘉永六年(一八五三)には備前岡山藩が沿岸警備にあたり、当郡三二村が同藩預地となっている(同七年岡山藩房総預地村高帳)。万延元年(一八六〇)より近江三上藩領となる村があった。元治元年(一八六四)若年寄平岡道弘が加増により一万石を領知、船形ふなかた(現館山市)に陣屋を置いている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報