平沢峠(大門峠)(読み)ひらさわとうげ

日本歴史地名大系 「平沢峠(大門峠)」の解説

平沢峠(大門峠)
ひらさわとうげ

標高一四三〇メートル。中世近世には大門だいもん峠ともよばれ、小県ちいさがた郡の大門峠と混同された。野辺山原のべやまはらを北にし、山梨県の盆地を南に見下ろす飯盛めしもり山の鞍部にある。佐久甲州道唯一の峠。天文年間(一五三二―五五)に平沢集落が設置され、武田氏の峠越えの軍道として整備された。武田氏の信濃侵攻経路には、諏訪から大門峠(小県郡の→大門峠・大河原峠を越えて佐久へ入るものと、この平沢峠を越えて佐久へ入るものとの二つがあったが、佐久地方への侵攻には直路にあたる平沢峠の利用が頻繁であったと考えられる。また、室町時代初期から中期にかけて、北信濃の土豪村上氏が甲斐国へ侵攻した際にもこの峠を利用したと思われる。

慶長一一年(一六〇六)幕命で野辺山原板橋いたばし村が置かれ、更に貞享三年(一六八六)矢出原新田やではらしんでん(三軒家)が峠の北直下に置かれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報