平方村(読み)ひらかたむら

日本歴史地名大系 「平方村」の解説

平方村
ひらかたむら

[現在地名]上尾市平方

上野うえの村の北西、大宮台地指扇さしおうぎ支台の西縁にある。西境を入間いるま川を合流した荒川が南流し、対岸は比企郡老袋おいぶくろ(現川越市)。同村との間に川越上尾道の渡船場、平方河岸があった。東の岩槻城下から原市はらいちを経て川越城下に至り、武蔵八王子方面へ通ずる脇往還筋にもあたり、平方宿とも称され宿並をなしていた(風土記稿)。永禄四年(一五六一)四月二五日の今川氏真判物写(古今消息集)によれば、小田原北条氏に加勢のため河越城に籠城中の小倉内蔵助に対し、「平方口」などで長尾景虎(上杉謙信)方と戦った際の戦功が賞されている。近世には足立郡平方領に属する(風土記稿)。田園簿では田二三七石余・畑四六七石余、岩槻藩領。延宝九年(一六八一)収公され、元禄七年(一六九四)の幕府領時の検地帳(永島家文書)では、高六九八石余、田二四町八反余・分米二〇三石余、畑九七町六反余・分米四九四石余、屋敷筆数一七〇。

平方村
ひらかたむら

[現在地名]長浜市平方町・三和町さんわちよう地福寺町じふくじちよう

南高田みなみたかだ村の南にある。「木間攫」によれば枝郷地福寺は東に分れてあるという。保安二年(一一二一)六月一日といわれる山門執行慶賀補任状(横田文書)に「平方庄」とみえる。同補任状によると、延暦三年(七八四)に平方に対し「三条室町之諸商買之座」が下され、平方浦は坂本日吉社領として殺生禁断となっていたという。寿永二年(一一八三)には、木曾義仲の軍勢が平方・朝妻あさづま(現坂田郡米原町)などの浦々を経て、京都に進軍している(「源平盛衰記」巻三〇)。建永元年(一二〇六)の慈円起請文(門葉記)によると、平方庄および坂田新庄の年貢米は琵琶湖を経て大津浦に輸送され、鎌倉初期から平方浦は湖上水運の拠点になっていたと考えられる。建武元年(一三三四)一一月九日、菅浦すがうら(現伊香郡西浅井町)の供御人藤二郎は、平方浦において材木一艘を国目代の代官と名乗る安食弥三郎の一団に差押えられ、平方市庭にこれを拘留されている(同二年正月「菅浦供御人等申状案」菅浦文書)

平方村
ひらかたむら

[現在地名]北茨城市平潟ひらかた

東は海に面し、北に向かって小港湾を開く。三方は丘陵性台地で、南は大津おおつ村、北は陸奥国菊多きくた九面ここづら(現福島県いわき市)。地名は常陸国赤浜妙法寺過去帳の長禄三年(一四五九)に「妙金尼平方正」とみえるのが早い。文禄四年(一五九五)岩城領検地目録(静嘉堂文庫蔵)には「百四拾七石三斗七升 関本之内平かた村」、同年の岩城領小物成目録(秋田県立図書館蔵)には

<資料は省略されています>

とあり、早くから沿岸漁業が行われていた。

平方港は寛永年間(一六二四―四四)仙台藩が廻米船の寄港地として築港した(平潟村誌)と伝えるが定かではない。

平方村
ひらかたむら

[現在地名]羽島市福寿町平方ふくじゆちようひらかた

本郷ほんごう村の南西、長良川沿いに位置する桑原くわばら輪中内の村。「濃州徇行記」に「長良川の堤下に民戸建ならべり、(中略)農業を専渡世とし」とある。天正一七年(一五八九)検地が行われ(浅野文書)八神やがみ毛利氏の年未詳知行目録写(毛利文書)に「五百八十石 ひらかた」が載る。また年未詳六月八日の下間頼龍奉本願寺御印書(円覚寺文書)にも「平方」がみえる。慶長郷帳では高五三七石余。慶長一四年(一六〇九)検地が行われ、検地帳六冊のうち五冊が現存(浅野家蔵)。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では稲葉正成(十七条藩)領。

平方村
ひらかたむら

[現在地名]太子町佐用岡さようおか

松尾まつお村の南に位置する。東は平方出屋敷ひらかたでやしき村。慶長国絵図に「平かた村」とみえる。慶長一八年(一六一三)の揖東郡村々高覚(三木家文書)によると同一三年の高四一九石余。元和三年(一六一七)林田藩領と鵤藩(のち新宮藩)領の相給となり、林田藩領は幕末まで続く。新宮藩領は寛文一〇年(一六七〇)幕府領、同一二年龍野藩領となり幕末に至る(「太子町史」など)。元和三年の揖東郡郷帳(林田郷土史)には「鵤ノ平方村ノ内」とみえ、林田藩領の高七〇石余。

平方村
ひらかたむら

[現在地名]越谷市平方

大泊おおどまり村の北に位置し、古利根川とあいの川に三角形の形で囲まれた輪中の地。古利根川を挟んで赤沼あかぬま村・銚子口ちようしぐち村・藤塚ふじつか(現春日部市)、会の川を挟んで備後びんご村・大枝おおえだ村・大畑おおはた(現同上)に対する。当地からは中世の板碑が数多く発見されている。集落は両川沿いの自然堤防上に連なる。当地浄土宗林西りんさい寺に宛てた天正一九年(一五九一)一一月日の徳川家康朱印状(林西寺文書)に「武蔵国崎西郡平方郷」とみえ、寛永一九年(一六四二)九月二四日の徳川家光朱印状(同文書)には「武蔵国崎西郡平方村」とある。田園簿では埼玉郡に属し、高は田方二二四石余・畑方八三七石余、ほかに野銭永一貫一五〇文がある。

平方村
ひらかたむら

[現在地名]流山市平方

中野久木なかのくき村の北に位置し、西に平方村新田、東方台地上には平方原ひらかたはら新田がある。平方村新田を含む西方の江戸川堤まで一面に田地が広がる。寛永二年(一六二五)知行宛行状で「平方村九拾一石余」が旗本建部昌興に与えられている。寛保二年(一七四二)の小金宿助郷六拾五ヶ村高改帳写(東葛飾郡誌)では旗本建部十郎左衛門(昌幸)領高九一石余、同建部新治郎(賢連)領高九八石余の相給。

平方村
ひらかたむら

[現在地名]小郡市平方

大刀洗たちあらい川中流右岸に位置し、西は光行みつゆき村に接する。集落内を南北に薩摩街道(松崎街道)が通り、北の古飯ふるえ村境の法華後ほつけうしろの街道脇に郡の境界石がある(文政一二年銘)。長享二年(一四八八)京都北野社の祠官青松院盛祐は大友氏から寄進された平方および河北かわきた庄が草野氏に押領されたので、同社の禅予から吹挙状を受取り、幕府に訴えた。

平方村
ひらかたむら

[現在地名]長島町平方

出口でぐち村の西に接し、長島城下町の西北にある。元和九年(一六二三)長島藩主松平(久松)定勝が長島を一輪中にまとめ、総掛廻し堤を築くと、不用になった平方村から東北の小嶋こじま村にかけての中隔堤を整備し水田の高低を調整した。これを井桁いげた堤といい、この堤より以北を長島上郷ながしまかみごう、以南を長島下郷と称した。また以前堤のなかった起畑河田を寛永二年(一六二五)当村の百姓西村孫左衛門が開発し、西にし新田と称した(長島細布)

近世は長島藩領で、文政七年(一八二四)の家数四六、人数二五〇。

平方村
ひらかたむら

[現在地名]江東区大島おおじま六―八丁目など

小名木おなぎ川北岸の村で、西は大島村、東は小名木村、北は深川出村・亀戸かめいど出村。小名木川沿岸を行徳ぎようとく(現千葉県市川市)への道が通る。「風土記稿」によると、村名は慶長年間(一五九六―一六一五)に河内国枚方ひらかた(現大阪府枚方市)出身の者が開発したことによる。東西四町余・南北三町余。北方のたて川南岸に三町余の飛地(出村)がある。

平方村
ひらかたむら

[現在地名]下妻市平方

鬼怒きぬ川左岸にあり、東は村。江戸初期に下総大輪藩領となり、「寛文朱印留」に村名が載る。元禄郷帳の村高は五七二石余。天明六年(一七八六)村の一部が山城淀藩領となり(「河岸問屋株、冥加金書上並びに据置き願書写」宮田家文書)、幕末は淀藩領分五一四石余、旗本大河内氏領九三石余(各村旧高簿)

鬼怒川水運の要所で、元禄初年に成立したといわれる平方河岸があり、米・大豆・薪炭などを利根川経由で江戸に運び、帰り荷として干鰯・塩を運んだ。

平方村
ひらかたむら

[現在地名]牧村平方

東は平山たいらやま村、西は坪山つぼやま村に接する小集落、東を平方川が北流する。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「戸沢孫八郎分平方村 下」とあり、本納六石四斗三升・縄高三〇石二斗七升四合、家二軒・七人。正保国絵図に高六〇石余とある。天和三年郷帳の蓮浄寺本によれば高五一石余、うち山高七斗一升四合・漆高四石二斗五升・青苧高一石二斗六升、反別田一町六反余・畑屋敷六町九反余・山林二町一反余・青苧畑一反余で漆木四二五本。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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