常三島(読み)じようさんじま

日本歴史地名大系 「常三島」の解説

常三島
じようさんじま

[現在地名]徳島市南常三島町みなみじようさんじまちよう一―三丁目・中常三島町なかじようさんじまちよう一―三丁目・北常三島町きたじようさんじまちよう一―三丁目・助任橋すけとうばし一―四丁目

徳島城の北東にあたり、ほぼ東流する助任川の北岸に位置する武家地。地名は、徳島大学附属図書館蔵の成立書并系図共太田忠介に「猪山北川向之島、則常三在宅可仕由ニ而被下置、家来桑村八蔵印を付置罷帰候様申付(中略)右ニ付今ニ常三嶋与申候」とあるように、蜂須賀家政の入部直後、林道感とともに徳島城の縄張りにあたった重臣武市常三の屋敷地が当地に与えられたことにちなむ。橋は助任橋一ヵ所で、徳島と結ばれていた。渡場は現在の神明しんめい橋の位置に大岡おおか対岸住吉島すみよしじまの間に設けられた挽船ひきふね(のち常三島渡)があった。居住者は享保一七年(一七三二)の御家中屋敷坪数間数改御帳では一一〇人で、長江家や山崎家といった中老や物頭、組士から無足士まで広範に分布する。とくに屋敷の配置で顕著なのは、助任橋に面して山崎家や長江家、西尾家といった重臣の屋敷が置かれた点で、橋の防備を意識した配置と考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報