市野村(読み)いちのむら

日本歴史地名大系 「市野村」の解説

市野村
いちのむら

[現在地名]浜松市市野町

上石田かみいしだ村の西、安間あんま川上流右岸に位置。古代には市野庄、中世には市野郷が成立した。また当地を「和名抄」所載の長上郡壱志いちし郷にあてる説もある。近世は本坂通が通り、宿駅の機能を有した。延宝(一六七三―八一)頃の青山氏領分絵図によると、本坂通は南部を東西に通り、街道に沿って町屋が形成されている。小地名に宿しゆく別所べつしよ市場いちんば本村ほんむら西脇にしわきがある(遠淡海地志)。松平忠頼領郷村帳では高八二八石余、田四九町余・畑五九町八反余、ほか宗安そうあん寺領一三石余・楞岩寺(楞厳寺)領三石余・正福しようふく寺領三石余・熊野領一石余、大明神領一一石余、惣大夫屋敷一七石余。惣大夫屋敷とは幕府代官市野惣大夫真久(実久)の屋敷であった。市野真久は永禄一一年(一五六八)から徳川家康に仕え、慶長五年(一六〇〇)には遠江の代官となった。同九年当村に一七石余の代官屋敷を与えられた。以後実次・実利・真防と続いたが、真防は元禄一〇年(一六九七)に代官職を辞し、小普請として江戸詰になり、一七石余の采地と一〇〇俵の扶持米取となった(「寛政重修諸家譜」など)正保郷帳では幕府領で田三五五石余・畑四一三石余のほか、宗安寺領一三石余・八幡領一一石余、楞厳りようごん寺・晶福しようふく寺領各三石余、熊野領一石余、宗大夫屋敷一七石余。

市野村
いちのむら

[現在地名]会津高田町旭市川あさひいちかわ

小川おがわ川の峡谷中にあり、大内おおうち(現下郷町)へ向かう大内峠の入口集落である。本村の北に端村大黒沢おおくろさわ、その北に端村駒谷こまたに、その北に端村向小川むかいおがわ(現上小川)が並び、さらにその北西に領家りようけ村端村小川(現下小川)小川窪おがわくぼ村がある。近世は会津領から寛永二〇年(一六四三)以降南山御蔵入領で、東尾岐組に属した。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に一之野とあり、高二九七石余。文化一五年(一八一八)の南山御蔵入領組村高帳では高三〇〇石余。化政期の家数は本村三七・大黒沢七・駒谷四・向小川七(新編会津風土記)。明治四年(一八七一)の家数四四(寺一)・人数二二四(人員録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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