島袋村(読み)しまぶくむら

日本歴史地名大系 「島袋村」の解説

島袋村
しまぶくむら

[現在地名]中城島袋しまぶく

比謝ひじや村の北西にある。中城なかぐしく間切の北端に位置し、東は美里んざとう間切比屋根ひやーぐん(現沖縄市)など、北は越来ぐいーく間切胡屋ぐや(現同上)に接する。もとの集落は越来間切に面して北向きに構えていたので、冬は北風にさらされるため、ぱらを中心とする南向きの場所に移動したという。絵図郷村帳に島袋村とみえる。琉球国高究帳によれば高頭一八〇余、うち田一四六石余・畠三三石余。脇地頭は万暦四四年(一六一六)一〇月一六日から崇禎六年(一六三三)頃まで祖氏(小谷家二代)三世祖国英島袋親雲上良宗が(祖姓小谷家家譜)、同一二年八月六日から同一六年まで毛氏(伊野波家初代)七世毛泰永伊野波親方盛紀が島袋・比嘉地頭を兼ねて(毛姓伊野波家家譜)、順治二年(一六四五)閏六月五日から同三年まで毛氏(上里家)七世毛用俊盛有の任職が確認できる(毛姓上里家家譜)

島袋村
しまぶくむら

[現在地名]大里村古堅ふるげん

東は古堅ふるぎん村、北は上与那原ういーゆなばる(現与那原町)、西は南風原ふえーばる間切宮平なーでーら(現南風原町)。絵図郷村帳・琉球国高究帳に島添大里しましーうーざとう間切島袋村、「琉球国由来記」にも大里うーざとう間切島袋村とみえる。同名の村が中城なかぐしく間切にある。高究帳によると高頭一〇九石余、うち田八六石余・畠二二石余。間切集成図には古堅村の西に道筋よりは少し離れて当村が描かれ、集落の北(後方)に井がある。当村を領した地頭職には康熙一〇年(一六七一)呉昭摸島袋大屋子幸通(夫地頭)、同一六年呉昭摸島袋親雲上幸通が任じられた(呉姓久高家家譜)。廃藩の頃は向氏島袋朝盛がいる。中城間切島袋地頭職は嘉陽田を名乗った(「家譜資料」那覇市史など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android