岩谷堂城跡(読み)いわやどうじようあと

日本歴史地名大系 「岩谷堂城跡」の解説

岩谷堂城跡
いわやどうじようあと

[現在地名]江刺市館山

岩谷堂館・江刺城・柄杓ひしやく城ともいい、江戸時代の正式呼称は岩谷堂要害。江刺平野の北から南へ張出した標高一一五メートル前後の丘陵の南端部、通称たて山の頂上に築かれた連郭式の山城。北を除く三方は急傾斜で、東から南東辺は人首ひとかべ川に臨む急崖である。中世から近世にかけての城跡。近世には仙台藩領の北辺を守るため藩境の下門岡しもかどおか村・上口内かみくちない(現北上市)野手崎のでさき村・人首村などに置かれた要害(館)とともに、その中核として機能し、これら要害とを結ぶさかり街道をはじめとする交通網が開かれ、軍事・政治・経済のうえで江刺郡統治の拠点となった。

当城を平安時代の安倍氏の諸柵の一つの鶴脛つるはぎ柵、藤原清衡が平泉に本拠を移す以前に居館した豊田とよだ館に擬定する説がある。昭和五七年(一九八二)の発掘調査により、近世の本丸跡南東部の腰郭から平安時代とみられる住居跡・工房跡と鎌倉時代とみられる建物跡、中世の舶載陶磁器・国産土器・金属器・石製品などの遺物が発見された。また本丸跡の八幡神社(近世の多聞寺鎮守)脇に延慶四年(一三一一)六月一五日の紀年銘のある石塔婆があり、二の丸跡に康永二年(一三四三)の紀年銘の石塔婆がある。これらにより当城跡は南北朝以前、さらに古代にさかのぼる可能性も強いといえる。

室町時代江刺郡は葛西氏から分れた江刺氏が領していたとされる。「奥南落穂集」に葛西信詮の次男江刺次郎信満が岩谷堂城主とみえる。江刺氏系図(葛西文書)によれば氏祖信満以後数代当城におり葛西氏に属した。「葛西真記録」に御城後見番詰として、上胆沢かみいさわを領していた柏山氏と並び「江刺三河守 居城岩谷堂二百五十人士頭」とみえる。天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉小田原おだわら(現神奈川県小田原市)攻撃に出陣しなかったため所領を没収され、閉伊へい乙茂おとも(現下閉伊郡岩泉町)に潜居した(前掲江刺氏系図)。同年秀吉の奥羽仕置により木村吉清・清久父子領となり、当城には佐瀬伯耆・粟野九左衛門が城代として派遣され、当地一帯を支配した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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