岡部氏居館跡(読み)おかべしきよかんあと

日本歴史地名大系 「岡部氏居館跡」の解説

岡部氏居館跡
おかべしきよかんあと

[現在地名]秋芳町大字岩永本郷 堀之内

岩永いわながの西、堀之内ほりのうちにある。付近を赤間関あかまがせき街道(中道筋)が通る。明治二〇年(一八八七)頃、県道拡張のため幅二間の堀を埋め、現在では道路に沿った小溝と、北方に土塁が一部残るのみである。

岡部氏は中世岩永郷の地頭で、その祖は武蔵七党のうちの猪俣党の末流で、武蔵国榛沢はたさわ郡岡部村(現埼玉県大里郡岡部町一帯)を領した。承久二年(一二二〇)岡部五郎兵衛景澄は、長門国美祢郡岩永郷の地頭となり下向、堀之内に居館を構えたという(秋芳町史)。のち大内氏に仕えた。岡部右衛門隆景は、天文二〇年(一五五一)陶晴賢の謀反に遭い、山口を逃れた大内義隆に従い、途中居館近くの即心そくしん(岩永八幡宮社坊)茶漬の接待をし(「中国治乱記」天文二〇年八月二九日)、長門深川の大寧ふかわのたいねい(現長門市)で義隆とともに自刃した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報