山室保(読み)やまむろほ

日本歴史地名大系 「山室保」の解説

山室保
やまむろほ

石田いしだ町付近に比定される。建暦三年(一二一三)の慈鎮所領譲状案(華頂要略)に極楽寺領として「金武保付山室」みえ、金武保とともに青蓮院門跡領であった。天福二年(一二三四)の慈源所領注文(同書)では双輪寺坊領「山室金武保」とみえ、両保合せて所当一〇〇石とある。嘉暦元年(一三二六)一二月日の山室保実検請坪状(大原観音寺文書)には智円名が記され、「七条一里廿二坪」とある。文明三年(一四七一)九月日の青蓮院門跡領近江国目録案(葛川明王院史料)に保名がみえ、翌年七月二五日には幕府が近江北郡守護京極氏の家臣多賀高忠に対し、同門跡領山室保などの押妨停止を命じている(「室町幕府奉行人奉書案」華頂要略)

山室保
やまむろほ

明治二二年(一八八九)成立の山室村を中心とした一帯に比定される。元来国衙領であったが、「師守記」貞治三年(一三六四)六月一八日条の頭書によれば、「越□□□□(中国山室)保」は皇室内廷の一つ穀倉院領となっており、南北朝期には別当中原氏によって所務が行われるようになっていた(同書同五年三月一一日条など)。この大外記中原家の「外記日記」の一つ「新抄」文永四年(一二六七)四月五日条には「越中山室尼公入滅五十九」とあり、当時すでに中原氏の家領化していたことをうかがわせる。「師守記」貞治三年七月五日条によれば、当時の山室保の地頭は幕府奉公衆の真下心蓮入道であったが、守護斯波義将方が山室保の押領を図り、真下方との間で係争状態になっていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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