山代村(読み)やましろむら

日本歴史地名大系 「山代村」の解説

山代村
やましろむら

[現在地名]加賀市山代温泉やましろおんせん

大聖寺だいしようじ川と動橋いぶりはし川の間に南北に連なる江沼えぬま丘陵北端に位置し、北に江沼郡穀倉地帯が広がる。村中央部に行基開湯という山代温泉がある。古代の江沼郡山背やましろ郷の地で天平一二年(七四〇)の越前国江沼郡山背郷計帳(正倉院文書)断簡が残り、「三代実録」貞観一八年(八七六)七月二一日条にみえる「山代大堰神」、「延喜式」神名帳江沼郡の服部はつとり神社が鎮座する。中世には当地を中心に京都北野社領山代庄が成立、当地付近は山代本やましろほん郷といわれた。

正保郷帳によると高一千四五一石余、田方七三町一反余・畑方一七町二反余、物成高五三六石余。ほかに新田高一千四五石余(物成高二五二石余)、田方三七町六反余・畑方三三町七反余。新田高の大部分は村の北東部に開かれた山代新村のものとみられる。山代新村は勧進場かんじんばともいい、寛永二年(一六二五)郡奉行吉田伊織の命で久世徳左衛門が監督築造した市之瀬いちのせ用水によって開発されたが、江戸時代を通じて一村として独立することはなく村高は山代村に含まれた。

山代村
やましろむら

[現在地名]松江市山代町など

大庭おおば村の東に位置し、北から東は矢田やだ村、村の北西端を馬橋まばし川が流れる。村の中央には「出雲国風土記」にみえる意宇おう郡の神名樋野かんなびのに比定される茶臼ちやうす(一七一・五メートル)がそびえる。中世は山代郷に含まれていたとみられる。現在、茶臼山の南東中腹に鎮座する真名井まない神社は近世まで伊弉諾いざなぎ社と称されていたため、伊弉諾村とも記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報