山之口村(読み)やまのくちむら

日本歴史地名大系 「山之口村」の解説

山之口村
やまのくちむら

[現在地名]山之口町山之口

現山之口町の中央部から北部を占め、東は北流するさかい川を挟んで宮崎郡田野たの(現田野町)、南は花木はなのき村、西は大井手おおいで(現高城町)、北方に青井あおい(五六三・二メートル)がそびえる。大部分を山間部が占め、東岳ひがしだけ川の谷口に形成された扇状地に平地がみられる。田野村から当村を経て大井手村に至る薩摩街道が通る。山ノ口とも記される。中世の山之口の遺称地で、江戸時代は初め鹿児島藩都城島津家領、慶長一九年(一六一四)鹿児島藩の四分一上知令によって同藩直轄領となって山之口郷に所属(北郷氏系図)。江戸時代の表高については、日向国覚書や寛文四年(一六六四)の諸県郡村高辻帳などで高一千二五八石余。内高については、「三州御治世要覧」には麓とみえ、高一千五九石余。旧高旧領取調帳では高一千一九七石余。山之口郷の地頭仮屋が置かれた麓集落で、「山之口名勝志」によればふもと方限・永野ながの方限・飛松とびまつ方限よりなっていた。

慶長一九年に鹿児島藩直轄領となり、大寺主計助が初代山之口地頭として入った。同時に都城島津家の家臣団が撤収したので、元和期(一六一五―二四)まで鹿児島藩諸外城から七五人を百姓として移住させている。寛永四年(一六二七)七月中旬より稲に小蠅という虫害が発生し、窮迫した士中より給知の返上があり、山之口衆中の本高は小高となったという。同一八年八月にも虫害のため不作となり、その後も百姓数と耕地の不均衡が続いた。万治二年(一六五九)には万治内検の結果として山之口郷への百姓の「人配」を行い、当村には男女五九人が移住させられている。

山之口村
やまのくちむら

[現在地名]萩原町山之口

尾崎おさき村の北、南流する山之口川最上流部にある。大野郡に属する。川沿いに通る位山くらいやま街道は北方位山峠を越えて久々野くぐの(現大野郡久々野町)方面へ通じる。この道はかつての官道東山道飛騨支路で、近世以降は脇街道として利用された。東方小坂おさか(現小坂町)へは南端たいらからほら谷を登り、登尾のぼりお峠を越える道、西の馬瀬まぜ(現馬瀬村)へは川上かおれ山脈一之谷いちのたに峠を越える道があった。村名は位山への登り口にあたることによるとされる(斐太後風土記)。慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳では一宮郷のうちとして村名がみえ、一宮いちのみや(現大野郡宮村)と合せて高三三三石余、田二四八石余・畑八五石余、物成一〇〇石余(三ツ成)。同一八年の郷帳では久々野郷に含まれ高八四石。元禄八年(一六九五)検地帳(山之口区有文書)では高一一三石余、田七町二反余・畑八町七反余、家数四二(百姓三六・家抱六)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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