尾浦(読み)おうら

日本歴史地名大系 「尾浦」の解説

尾浦
おうら

[現在地名]女川町尾浦

女川湾口の北方いず島に面して突き出た半島の中ほどに入込んだ位置にあり、南は待井まちい坂で竹浦たけのうらに接し、北は御前浜おんまえはまふだすな峰までが尾浦分、西は石浜いしはまに接し護天ごてんさかい塚までが村の範囲であった。村名由来について「安永風土記」は、神亀年中(七二四―七二九)に天竺釈旦国千葉大王の皇子が当浦に漂着したので、そのとき王浦と称し、中古大浦と改め、いつの頃からか尾浦となったという。なお屋敷名の項では尾浦おほうら屋敷と振仮名がある。正保郷帳に田二六九文・畑七三四文とある。牡鹿郡遠島女川組大肝入扱いのうち。藩政期を通じて蔵入地で、「牡鹿郡万御改書上」では、竹浦のなかに含まれて記され、元禄年間(一六八八―一七〇四)には尾浦在家東西三四間・南北三町三〇間、肝入は左伝治、御林が六ヵ銘、山守は肝入自身であった。正徳五年(一七一五)の表御百姓相立願(千葉亀之助家文書)によれば、尾浦組頭留兵衛はじめ七人の百姓が、自分の名子・添人に持高のうちから永代分譲し表百姓に取立ててほしい旨、肝入連判をもって願出て、二ヵ月後に許可されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報