牡鹿郡(読み)おしかぐん

日本歴史地名大系 「牡鹿郡」の解説

牡鹿郡
おしかぐん

面積:一三九・三二平方キロ
牡鹿おしか町・女川おながわ

北上山地が北上川(追波川)で分断され、その南は牡鹿半島として太平洋へ突出する。半島は地質的には三陸海岸の延長のため、いわゆるリアス海岸で、湾と岬が交互に入込み、丘陵が海に迫っている。また多くの島があり、その最大のものは金華山きんかさんである。海上に現れない岩礁も多いため、魚介類も豊富で、好個の漁場となっている。西端石巻いしのまき市との境界にある万石まんごく浦はもとは巨大な入江であったが、今は潟湖となっている。牡鹿半島基部の西半分は石巻市であり、また万石浦と雄勝おがつ峠を結ぶ線で石巻市に、北は桃生ものう郡雄勝町に接する。

「続日本紀」天平九年(七三七)四月一四日条に「牡鹿柵」が記される。

〔原始〕

狭い海岸平野に面した台地に遺跡が点在し、とくに入海となっている万石浦周辺に多数分布する。旧石器時代の遺跡としては、尖頭器の発見された女川町の裏猪落うらいのとし遺跡がある。縄文時代の遺跡は海岸平野に貝塚が点在するが、松島湾や内陸部の貝塚と違って、岩礁性の巻貝類や外洋性の貝類の割合が多くなり、貝堆積も顕著でない。前期から後期の牡鹿町給分浜きゆうぶんはま貝塚、万石浦に面した内湾性貝塚の後・晩期の女川町尾田峰おだみね貝塚(別称浦宿貝塚)から漁労具の銛・やすなどの出土があり、とくに上半身を欠くが大型中空土偶の出土は特記される。また女川町いず島では縄文前期から後期の遺物を出土する貝塚と、弥生期の祭祀遺跡配石遺構からなる出島遺跡がある。弥生後期の遺物を出土する女川町黒島くろしま貝塚もあり、この地域にも弥生文化の伝播がある。現在古墳は発見されていない。古墳期および奈良・平安時代の集落は、狭い海岸部の平野に点在する。

〔古代〕

郡創置の時期は明らかでない。牡鹿柵の初見は「続日本紀」天平九年四月一四日条で、陸奥按察使大野東人が多賀柵(多賀城の前身)から出羽国雄勝おがち(現秋田県湯沢市方面)への直路を開こうとした際に「国大掾正七位下日下部宿禰大麻呂鎮牡鹿柵」とある。牡鹿柵は天平九年以前に創置されていたことになる。いわゆる天平五柵の一つであるが、所在は確定できていない。牡鹿柵がつくられ、その後牡鹿郡になったとすると、これ以後あまり年代の隔たらない時期に創置されたとみられる。同書同一四年正月二三日条に「ふる赤雪」として「黒川郡以北十一郡」とあるが、「十一郡」は「一十郡」の誤りで、「奥十郡」とされるが、このなかには牡鹿郡が含まれていると考えられるから、天平九年から同一四年の間の創置ともみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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