尻岸内村(読み)しりきしないむら

日本歴史地名大系 「尻岸内村」の解説

尻岸内村
しりきしないむら

[現在地名]亀田かめだ恵山町字日浦ひうら・字吉畑きちはた・字豊浦とようら・字大澗おおま・字日和山ひよりやま・字中浜なかはま・字女那川めながわ・字川上かわかみ・字高岱たかだい・字日ノ浜ひのはま・字古武井こぶい・字恵山・字柏野かしわの・字御崎みさき

近世から昭和三九年(一九六四)までの村。箱館六箇場所の一つ尻岸内場所であったが、寛政一二年(一八〇〇)に「村並」となり(休明光記附録)、天保郷帳の「従松前東在」に「尻岸内」とみえ、持場として日浦・昆布井こぶい根田内ねたないが記される。安政五年(一八五八)正式に村となった(書付并伺書類)亀田半島の北東の突端に位置し、津軽海峡の北海域と太平洋に臨む。南は日浦岬をもって南西の境とし、北は東端の恵山岬海馬とど岩から北西へ海向かいこう(五七〇メートル)まる(六九一・一メートル)毛無けなし(六三〇・九メートル)三枚さんまい(五八五・九メートル)と続く山岳地帯で画される。北東部にある活火山恵山(六一八・一メートル)は赤肌の山容を太平洋に突き出し、西に連なる海向山と一続きの山岳帯をなし、頂上に恵山の火口原が広がる。

〔近世〕

文化八年(一八一一)の尻岸内の戸口は五〇戸・二一四人(蝦夷地明細記)。文政四年(一八二一)松前藩領となる。天保一二年(一八四一)の尻岸内村割金四一両、家数六一・人数二四六(「箱館町々戸口其他」道立文書館蔵)。嘉永六年(一八五三)の尻岸内(日浦・古武井・根田内総計)の家数八一・人数四四四、アイヌ小家四軒・一三人、馬八六・牛五、駄昆布一一一駄・元揃昆布一万三千九〇〇把(三千四七五駄)・長切昆布四万八千貫(一千二〇〇駄)・鰯粕六千八〇〇貫・鱈四三〇束・布苔二千八〇五貫、船一一九。和人の来住で戸口が増加し、漁業生産が伸びた(同七年「六ヶ場所調書」市立函館図書館蔵)。「シリキシナイ」付近から「シカベ辺迄昆布稼いたし候所にて、諸村々より夏中出稼なす」(地名考并里程記)と記される。なおかつて尻岸内場所の中心であった尻岸内は日浦から山道一里、海岸半里、古武井から一里。人家は一〇余軒、小商人一軒。漁者のみで、上手に畑が少し、村内に産神社・制札・会所があった(「蝦夷日誌」一編)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報