尚徳館跡(読み)しようとくかんあと

日本歴史地名大系 「尚徳館跡」の解説

尚徳館跡
しようとくかんあと

[現在地名]鳥取市尚徳町

現在県立図書館・同公文書館・同県民会館のある地に設置されていた鳥取藩の藩校。宝暦七年(一七五七)創立当初は学問屋敷とよばれていたが、弘化四年(一八四七)頃に至り学館、安政六年(一八五九)より学校と称されていた(「旧鳥取藩学事」県立図書館蔵)。宝暦六年に家老鵜殿縫殿之助央尭と津田周防元武は学館創建の義を定め、御用人兼御傅役山田兵左衛門国に調査研究を命じ、同年七月に分知家東館家の医師であった箕浦文蔵(世亮)を学問師範役に抜擢して、一〇月学問屋敷の建設に着手した。場所は江崎下えざきしたの惣門より大名だいみよう小路に入る左角で、表側三一間二尺、惣門側三七間二尺、若桜わかさ往来に続く道に沿って三五間五尺の規模であった(因府年表)。校名尚徳館については、意見をもとめられた山田国が尚徳館・興譲館・篤親館の三案を示し、藩主池田重寛の裁定により尚徳館に決定したという(藩史)。山田国は学問に厚く、もっとも論語を好んで「論語稽義」二〇巻を著しているので(墓碑)、尚徳の二字は「論語」憲問第一四にある「君子哉若人、尚徳哉若人」によると思われる。しかし「易」の小畜上九にも「既雨既処、尚徳戴」の句があり、どちらとも決めがたい。明治五年(一八七二)に尚徳館旧蔵の藩主遺墨が池田家に返還されたが、そのなかに創建当時の藩主重寛の「尚徳」の二字を記す扁額があった(「鳥取県教育史資料制度編」県立図書館蔵)。また寛政一〇年(一七九八)に当時の学館奉行箕浦徳胤撰の尚徳館記に「稽古・尚徳・尚歯」を学問の中心とすべきであるとして尚徳の名をとったと記している(「因伯碑文集」県立図書館蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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