小黒村(読み)おぐろむら

日本歴史地名大系 「小黒村」の解説

小黒村
おぐろむら

[現在地名]静岡市小黒一―三丁目・豊原町とよはらちよう曲金まがりかね三丁目・豊田とよだ一―三丁目・有明町ありあけちよう

有東うとう村の北に位置し、西は八幡やはた村。大永四年(一五二四)九月二〇日の今川氏親朱印状写(「諸家文書纂」所収興津文書)によると、興津久信の所領であった「安部郡之内河辺郷地頭方、并小黒之田地、狐崎之田地」などがその子正信に安堵されている。天文三年(一五三四)七月一三日には、正信に駿遠両国の当知行分として「河辺枝郷小黒之内五町此内きつねかさきに壱丁ふす」が安堵された(「今川氏輝判物写」同文書)河辺かわのべ郷は駿府の南、安倍あべ川の東に位置する。狐崎きつねがさきを現在の日本平にほんだいら北端に比定する説があり、それに従えば当地と河辺郷・狐崎はそれぞれ離れており、この記述については検討を要する。

小黒村
こぐろむら

[現在地名]安塚町小黒

北流するほお下流沿いにある。下流は和田わだ村を経て松之山まつのやま(現松代町・松之山町)に通じ、上流は切越きりこし村から経塚きようづか山を越えて高田たかだ城下(現上越市)への道が通じる交通の要地。地内には経塚峰のほか能念寺のうねんじ八幡沢はちまんざわ宮田みやたなどの宗教地名がある。小黒保の遺称地であり、親鸞と恵信尼の女小黒女房の在所に比定されている。天文一五年(一五四六)一一月一五日の長夫和尚宛二通の吉田英忠寺領寄進状(賞泉寺文書)に「五十公之郷小黒之保安塚」の福寿寺山屋敷・畠などと「小黒之保之内下安塚」の田畠屋敷などを安塚の禅寺賞泉しようせん寺へ寄進するとある。

小黒村
おぐろむら

[現在地名]大沢野町小黒

大沢野上位段丘の北端にあり、東は万願寺まんがんじ村、南は塩野しおの村。村の北境を神通川の支流熊野くまの川が流れる。川向い青柳新あおやなぎしん(現富山市)。村落は中位段丘にもあり、俗に下小黒したおぐろという。正保四年(一六四七)の「越中道記」に布市ぬのいち(現富山市)から一里一八町で、熊野川は広さ二七間、深さ二尺とある。正保郷帳では高三四六石余、田方二二町三反余・畑方七反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高三六六石、明暦二年(一六五六)の新田高二石、免五ツ二歩、小物成はない(三箇国高物成帳)。元禄三年(一六九〇)川崩れで一一〇石が引高となり、享保八年(一七二三)三石、同一一年一石、延享元年(一七四四)三石、文化一四年(一八一七)二石余、天保九年(一八三八)一五石の手上高があり、天保一一年の草高二八二石余、免四ツ六歩、また小黒村領として文化三年の畑新開高一〇石、免二ツ六歩がある(「高免帳」杉木家文書)

小黒村
おぐろむら

[現在地名]丸岡町小黒

升田ますた村の西に位置する農村。天正八年(一五八〇)閏三月五日付の越前在々宛教如書状(福円寺文書)に「お黒」とみえる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「高ほこノ郷」(高九二八二・二三三石)のうちに含まれる。村名は正保郷帳にみえ、田方一千四〇五石余・畠方一九二石余。丸岡藩領。寛政元年(一七八九)四月の御巡見様御案内高付覚(土肥家文書)によると、家数八三で馬二六頭であった。

越前国名蹟考」に「西小黒、中小黒、東小黒、新小黒、右四ケ村に分居本枝不知」とみえ、四集落からなっていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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