小野太三郎(読み)おの・たさぶろう

朝日日本歴史人物事典 「小野太三郎」の解説

小野太三郎

没年明治45.4.5(1912)
生年天保11.1.15(1840.2.17)
江戸時代末期から明治にかけての慈善事業家。今日の社会福祉施設に連なるわが国で最も古い救済施設のひとつ小野慈善院(現陽風園)を創始した。加賀金沢(石川県金沢市)堀川町の生まれとされるが,越中(富山県)の小野在を出生地とする説もある。金沢藩に仕え卒方小者組。元治1(1864)年の飢饉のとき,貧しく飢えた人々に持ち金をすべて施す。維新後は古着を商う。明治6(1873)年木ノ新保(金沢市)に家屋1棟を購入し本格的に施設救済を始める。対象者を制限せず,明治23年ころには,施設救済,金銭援助合わせて400人余となる。39年に事業を財団法人化するまでには延べ1万人余を独力で救済した。生涯を慈善事業に捧げ,その生活は質素を極めたという。

(越孝之)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「小野太三郎」の意味・わかりやすい解説

小野太三郎
おのたさぶろう
(1840―1912)

明治の慈善事業家。金沢に生まれる。16歳のときに眼疾を患ったことから、とくに盲人を思いやること甚だしかった。維新直後の1873年(明治6)1棟の家屋を購入して盲人二十数名を収容、救済したのが福祉事業にかかわった始めという。1879年にはさらに6棟の家屋を購入して、生活困窮者200余名を収容、救護に努めた。のち1906年(明治39)財団法人小野慈善院を設立、1万人余の窮民を収容、救育し、多くの人々を更生自活させた。現在の社会福祉法人小野陽風園(金沢市)はその後身である。

[小倉襄二]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小野太三郎」の解説

小野太三郎 おの-たさぶろう

1840-1912 明治時代の社会事業家。
天保(てんぽう)11年1月15日生まれ。16歳のとき眼病をわずらう。維新後は金沢市内で古物商をいとなみ,明治6年家屋を購入して盲人二十余人を,11年家屋をふやし生活困窮者二百余人を収容した。39年小野慈善院(現陽風園)を設立した。明治45年4月5日死去。73歳。加賀(石川県)出身

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