小椋庄(読み)おぐらのしよう

日本歴史地名大系 「小椋庄」の解説

小椋庄
おぐらのしよう

愛東町小倉おぐら付近に比定される冷泉宮(三条院皇女環子内親王)領庄園。領家職は摂関家、のち近衛家へ伝領される。地頭職は佐々木六角氏であったが、元弘の変によって没収され、奈良興福寺に寄進されたと考えられる。久安六年(一一五〇)から長寛元年(一一六三)頃の丈六仏造営料支配注文(京都大学所蔵兵範記久安六年八月巻裏文書)に「小椋」とみえ、延勝えんしよう(現廃寺)と思われる寺の丈六仏九体のうち仏師賢円が担当する一体分の仏身と葩(はなびら)の経費を負担している。応保元年(一一六一)頃と推定される延暦寺西塔僧湛禅解(京都大学所蔵兵範記保元二年冬巻裏文書)によれば、湛禅は延暦寺西塔院釈迦堂後戸閼伽棚の修理のため、当庄住人に杉榑六〇〇寸をあつらえさせたが、去る八、九月に当庄は国使のために牢籠し、庄民は両方からの年貢徴収を恐れて逃散するという事件が起こった。このため盗難を恐れた湛禅は、河一筋越したかき御園(現八日市市)に榑を移した。ところが事件が落着した時に、当庄の住民紀安道が柿御園に盗まれたと本家に言上したため、湛禅は小椋庄では榑の盗難が多発しているが、当該の榑は盗まれたものではないと訴えている。

小椋庄
おぐらのしよう

現柏原町南東部に所在した庄園。上小倉かみおぐら・下小倉を遺称とする。成立時期、本家・領家などは不明であるが、正嘉二年(一二五八)一〇月日の小椋庄惣田数注進状(久下信生家文書。以下断らない限り同文書)によれば、鎌倉中期の当庄は総田数四一町二反余・総畠数一四町六反余で、田地・畠地の大部分は久任名以下二二の名に分けられていた。最大の久任名は田畠合せて九町三反四五代で、末成名の五町七反四〇代がこれに次ぐ。一方小さな名は清真名・家光名などの八反余である。佃や地頭給も各名に含まれ、佃の田数は三町一反余、地頭給は田畠合せて五町三反となっている。

貞和二年(一三四六)久下仙阿と南条高光が地頭職をめぐって相論しており、仙阿は闕所地となっていたものを建武五年(一三三八)勲功の賞として拝領したといい、高光は「重代相伝当知行」を主張している(貞和二年六月三日「久下仙阿代官菅原義成請文」・同年一一月日「南条高光申状案」大石寺文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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