富本村(読み)といもとむら

日本歴史地名大系 「富本村」の解説

富本村
といもとむら

[現在地名]田主丸町竹野たけの

竹野村徳間とくま村に隣接する。屋敷地・耕地ともに山辺やまべ往還に沿い、御立藪・御立雑木山がある(上三郡絵図)。文禄四年(一五九五)一二月一日の小早川秀俊宛行状(星野家伝記)によると、樋口越前守が当村の三六石二斗などを与えられている。本高は二四三石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高三九〇石・役高四五九石。享保一二年(一七二七)の夏物成は大麦八石七斗余・小麦四石三斗余・菜種一石四斗余(「本地夏物成帳」中村家文書)。寛政元年(一七八九)の撫斗代六斗三升、人数二〇九、馬二二(上三郡取調手鑑)。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高四六一石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田二三町余・開田四反余・畑田七反余・畑一七町三反余・居屋敷五反余。

富本村
とんもとむら

[現在地名]田原本町大字富本

飛鳥川東岸、宮古みやこ村の西に所在。「磯城郡誌」は富本の地名を飛鳥川の水をせき止める意とする説を記す。元禄郷帳には「異本富元ニ作ル」とあり、「大和志」には「冨旧作飛」とみえる。

慶長郷帳の村高は二五四・四五石で旗本佐久間氏(政実系)領。寛永一六年(一六三九)郡山藩(本多政勝)領となり、のち二割半無地高増政策で村高三一八・〇六三石となる。和州御領郷鑑によると、享保九年(一七二四)の反別一八町一反八畝五歩、家数二四(本百姓二一、水呑三)、人口一三二(男五五、女七七)で、牛二、商人六(せり売一、油売二、かせや一、紙や一)とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報