宮野下村(読み)みやのしたむら

日本歴史地名大系 「宮野下村」の解説

宮野下村
みやのしたむら

[現在地名]三間町宮野下

三間盆地の中央部にある村で、東は元宗もとむね村、西は戸雁とがり村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「宮下村 茅山有、小川有」と村名が異記される。吉田藩領であった。村名の由来は村内の三島神社に基づく。延宝九年(一六八一)の「吉田古記」によると、三島神社は天平一〇年(七三八)越智おち大三島おおみしまより勧請中野なかのの地頭河野氏が同社を氏神としてのち、これまでの成妙なるたえ村を宮下みやのした村に改めたと記されているが、その年代は明らかでない。

宮野下村
みやのしたむら

[現在地名]塩沢町宮野下

上野うわの村の北、魚野うおの川の支流仁田にた川の奥にある。東は上一日市かみひといち村、北は下一日市村、西は当間あてま(一〇一六・五メートル)山麓。支集落大御堂おおみどうがある。村名は字神楽岡かぐらおかにある石打いしうち神社にちなむ。天和三年郷帳では高一六六石四斗余。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では田九町五反余・畑六町七反余、家数三三、男八八・女七〇、牛一・馬一九。「新編会津風土記」によると、集落は南北の二区と西の山寄り小坂こさかの三区に分れ、家数合計四六。

宮野下村
みやのしたむら

[現在地名]鴨川市みや

代野だいの村の東にあり、曾呂そろ川が村内を貫流する。嶺岡東みねおかひがし牧の南東側に位置し、江戸時代初期は曾呂村の一部であった。正保郷帳に村名がみえ、高三五七石余、うち田方二六四石余・畑方九三石余で、旗本石川領。石川領は慶安四年(一六五一)収公され、元禄一〇年(一六九七)旗本京極領となる。宝永二年(一七〇五)京極高甫は遺領二千石のうち一千五〇〇石を継承し、五〇〇石を弟(実は叔父)高林に分知。元文村高帳では京極四郎左衛門領一六五石余・京極市十郎領一九一石余。「寛政重修諸家譜」によると、市十郎高周は高林の子で享保一四年(一七二九)に没しており、元文期(一七三六―四一)には高周の子高英が家督を継いでいる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報