宮体詩(読み)きゅうたいし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「宮体詩」の意味・わかりやすい解説

宮体詩
きゅうたいし

中国、六朝(りくちょう)時代、宮女の艶情(えんじょう)を中心にした、繊細で技巧的な詩のスタイルをいう。六朝時代の詩は貴族のサロンを中心に発展し、5、6世紀になると修辞が洗練され、沈約(しんやく)(441―513)の四声八病(しせいはっぺい)説が現れて音律も整えられた。これを受けて梁(りょう)代後半に簡文帝(かんぶんてい)(503―551)の宮廷において宮体詩が流行し、精緻(せいち)で艶麗(えんれい)な表現を競い、官能的で退廃的な作品を多くつくりだした。舞い姿、琴の音、恨み嘆くさまなどにさまざまな女性の美が発見され、ここに貴族文学の一つの方向が極められたといえる。「夕殿珠簾(せきでんしゅれん)を下ろす/流蛍(りゅうけい)飛んで復息(またいこ)う/長夜羅衣(らい)を縫(ぬ)う/君を思って此(ここ)に何ぞ極まらん」(「玉階怨(ぎょくかいえん)」)。

 簡文帝のもとで徐陵(じょりょう)(507―583)が編集した『玉台新詠(ぎょくだいしんえい)』10巻には宮体詩の代表作が集められている。

[市川桃子]

『鈴木虎雄訳『玉台新詠集 上』(岩波文庫)』

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改訂新版 世界大百科事典 「宮体詩」の意味・わかりやすい解説

宮体詩 (きゅうたいし)
gōng tǐ shī

中国,六朝・梁の簡文帝蕭綱(しようこう)が皇太子であったとき,東宮に集まった文人たちとともに作った新体の詩で,当時さかんであった詠物詩風と,江南民歌の影響を受けている。空閨の怨みから,その姿態調度品に至るまで,すべて女性をテーマとし,艶麗な表現を用いて詠まれており,艶体とも呼ばれて世に広まった。その詩を集めたものに,東宮文学集団の一人である徐陵の《玉台新詠》10巻がある。
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