安中城跡(読み)あんなかじようあと

日本歴史地名大系 「安中城跡」の解説

安中城跡
あんなかじようあと

[現在地名]安中市安中三丁目・安中

中・近世を通じて九十九つくも川南岸の台地上にあった城で、中世までは同川沿いを東山道が、近世には南側を中山道が走る交通の要地であった。明治六年(一八七三)破却された。

〔中世〕

「上野志」「安中志」には、永禄二年(一五五九)安中越前守忠政(正)野後のじり(尻)の窪庭図書の居住していた地に城を築立て、原市の榎下はらいちのえげ城から移って安中と改め、同六年松井田まついだ(現碓氷郡松井田町)に移り、安中城は嫡子忠成(景繁)に譲ったとある。この時期の安中城は東山道が九十九川沿いにあったために追手を北に向けており、本丸は近世の本丸の北東、のちに太郎兵衛屋敷たろうべえやしきといわれた地に置かれたとみられる。平城で、東西六七〇メートル、南北は三五〇メートル。北面は九十九川の断崖が約二〇メートル、東面・南面も約一〇メートルの崖で、西側だけが平坦地なので堀切とした。西側の馬場ばばという所が虎口で搦手であった。本丸が北に突き出した部分にあり、二ノ丸はその南に、三ノ丸は二ノ丸の周りに捨て郭としてあった。本丸は東西一二〇メートル、南北八〇メートルである。

安中城周辺を主戦場とした弘治二年(一五五六)春のみか(三日)じり合戦以後武田信玄はしばしば西上州に攻め入ったが(「関八州古戦録」、同年一一月一六日「足利義氏感状写」武州文書)、安中景繁は箕輪みのわ(現群馬郡箕郷町)の長野氏と結んで上杉方として抗戦した。永禄七年、武田勢の攻勢により上杉方の諸城は分断され(同年二月一日「上杉輝虎判物写」内閣文庫蔵)、「麦作悉苅取」「苗代薙払」という武田方の戦略により(同年五月一七日武田信玄書状写「鎌倉系図」所収)、安中城・松井田城は相次いで落城した(九月一五日「太田資矩書状」白川文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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