堀田正俊(読み)ホッタマサトシ

デジタル大辞泉 「堀田正俊」の意味・読み・例文・類語

ほった‐まさとし【堀田正俊】

[1634~1684]江戸前期の政治家下総しもうさ古河こが藩主。将軍徳川綱吉擁立に功をあげて大老となったが、殿中で若年寄の稲葉正休まさやす刺殺された。

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精選版 日本国語大辞典 「堀田正俊」の意味・読み・例文・類語

ほった‐まさとし【堀田正俊】

江戸前期の大老。下総国古河(こが)藩主。堀田正盛の子。老中職にあったが家綱が死ぬと綱吉を擁立して将軍につかせ、大老となったが、剛直性格のため若年寄稲葉正休に殿中で刺殺された。寛永一一~貞享元年(一六三四‐八四

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朝日日本歴史人物事典 「堀田正俊」の解説

堀田正俊

没年:貞享1.8.28(1684.10.7)
生年:寛永11(1634)
江戸前期の大名。老中,大老として5代将軍徳川綱吉の初政を支えた。3代将軍徳川家光の信が厚かった正盛の3男,母は酒井忠勝の娘。寛永12(1635)年家光の命により春日局養子となり,大奥で育てられた。18年徳川家綱の小姓となり,20年春日局の死去によりその遺領(相模国〈神奈川県〉高座郡内)3000石を給された。慶安4(1651)年父の遺領のうち1万石を分知されて大名に列した。万治3(1660)年奏者番,寛文7(1667)年には7000石加増され,上野国(群馬県)安中藩2万石を賜った。10年若年寄,延宝7(1679)年老中となり,それまでの加増分を合わせ4万石を領した。8年8月上野国館林藩主徳川綱吉が将軍になると重用され,農政専管老中に任ぜられた。綱吉の将軍擁立に功があったからといわれる。天和1(1681)年2月安中より下総国古河(茨城県)9万石に転封,12月には大老となり,2年1月には4万石加増され計13万石を領した。幕府は,延宝8年から天和にかけて一連の農業政策を展開している。閏8月3日正俊の名をもって著名な代官への「条々」7カ条を出し,天和1年には勘定役4名に総代官の年貢未進調査を命じ,翌年には勘定吟味役を新設して勘定所役人の監察体制を築いた。これらの政策により不正代官の処罰が行われ,幕初以来の年貢請負人的な代官は払拭されて徴租官僚的な代官が置かれることになった。それはとりもなおさず,代官の中間搾取を排除し,幕府の年貢収入を増大させることを目的とするものであった。この一連の農政の展開を支えたのが正俊といわれる。将軍綱吉と正俊との間柄は,その後冷えていったが,貞享1(1684)年8月28日若年寄稲葉正休により江戸城中で刺殺された。その理由は,私憤とも公憤ともいわれるが明らかではない。時として将軍をも憚らない性格が災いしたのかもしれない。<参考文献>辻達也享保改革研究』,木村礎「堀田正俊」(『江戸幕府〈上〉―その実力者たち―』)

(泉正人)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「堀田正俊」の意味・わかりやすい解説

堀田正俊
ほったまさとし
(1634―1684)

江戸前期の大名。幕府老中、大老。正盛(まさもり)の三男正信(まさのぶ)の弟。通称久太郎。曽祖母にあたる春日局(かすがのつぼね)の養子となる。徳川家綱(いえつな)の小姓として出仕、上州安中(あんなか)藩主(2万石、のち4万石)を経て下総(しもうさ)古河(こが)藩主(9万石、のち13万石)となる。4代将軍家綱治世の末期、1679年(延宝7)老中となり、5代将軍綱吉(つなよし)の擁立に功があった。81年(天和1)大老。「天和(てんな)の治」として知られる綱吉初政期の実力者。正俊は自ら信ずること厚く、他には厳しい剛腹な人物といわれ、その天和の治は「賞罰厳明」をもって知られる。代官の統制・任免を通じての農政の強化、大名ことに譜代(ふだい)大名に対する除・減封の推進による幕政の引締めを図る。綱吉治世期29年間の除・減封は61件、うち初期の正俊執政期5年間に17件(廃絶録(はいぜつろく))。大老就任にあたり、牧野成貞(まきのなりさだ)を登用して将軍の側用人(そばようにん)とし、これを自らの「耳目(じもく)」とした。綱吉治世の安定とともにその寵(ちょう)を失う。84年(貞享1)8月28日、江戸城中において、若年寄で従弟(いとこ)にあたる稲葉正休(いなばまさやす)のために刺殺された。

[木村 礎]

『木村礎著「堀田正俊」(北島正元編『江戸幕府――その実力者たち』所収・1964・人物往来社)』『篠丸頼彦著「堀田正俊」(児玉幸多・木村礎編『大名列伝 6』所収・1966・人物往来社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「堀田正俊」の意味・わかりやすい解説

堀田正俊 (ほったまさとし)
生没年:1634-84(寛永11-貞享1)

江戸中期の政治家。3代将軍徳川家光の腹心堀田正盛の三男。1635年(寛永12)家光の乳母春日局の養子となり,41年世子家綱の小姓を務め,43年春日局の遺領3000石を相続。51年(慶安4)父正盛の遺領から1万石を分与され,従五位下備中守に叙任。67年(寛文7)2万石上野安中(あんなか)城主となる。70年若年寄,79年(延宝7)老中に進み,4万石を領し,従四位下に昇る。翌80年5代将軍を継いだ徳川綱吉から厚い信任を受け,財政専管を命ぜられ,翌81年(天和1)下総古河(こが)城主に転じ,5万石を加封,筑前守に改め,さらに大老に昇り,翌年4万石加増,合計13万石を領する。綱吉の初政期〈天和の治〉には正俊の補佐の功はすこぶる大きいと認められるが,やがてその権勢が幕臣の反感をよび,また剛直な性格が綱吉に嫌悪されるようになったと伝えられる。84年8月28日父の従弟若年寄稲葉正休(まさやす)に城中で刺殺された。理由は正休の私怨か,正俊専権への公憤か不明。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「堀田正俊」の意味・わかりやすい解説

堀田正俊
ほったまさとし

[生]寛永11(1634).江戸
[没]貞享1(1684).8.28. 江戸
江戸時代初期の下総古河藩主。江戸幕府の大老。正盛の3男。正信の弟。母は酒井讃岐守忠勝の娘。幼名,小太郎。寛永 12 (1635) 年3代将軍徳川家光の命によって春日局 (かすがのつぼね) の養子となった。慶安4 (51) 年4月に父が家光に殉じたため,その遺領のうち1万石を与えられ,備中守となった。延宝7 (79) 年老中となり,同8年4代将軍徳川家綱が死んだ際,家光の子綱吉を擁して大老酒井忠清らと対立。綱吉が5代将軍となってからはその片腕として幕政を主導。天和1 (81) 年 12月大老。その治政を天和 (てんな) の治という。貞享1 (84) 年稲葉正休に刺殺された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「堀田正俊」の解説

堀田正俊
ほったまさとし

1634~84.8.28

江戸前期の老中・大老。父は正盛。1635年(寛永12)徳川家光の乳母春日局の養子となり,41年徳川家綱の小姓,60年(万治3)奏者番,70年(寛文10)若年寄,79年(延宝7)老中となり従四位下に叙任。徳川綱吉の将軍擁立に尽し,綱吉の厚い信頼により財政専管を命じられる。81年(天和元)下総国古河藩主となって備中守から筑前守に改め,大老に昇った。翌年加増され13万石。譜代大名の改易・減封や世襲的代官の大量処分など,綱吉の初政である天和の治を補佐したが,その武断的な政治は幕臣の反感をよび,84年(貞享元)8月,江戸城中で父正盛の従弟,若年寄稲葉正休により刺殺。

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百科事典マイペディア 「堀田正俊」の意味・わかりやすい解説

堀田正俊【ほったまさとし】

下総古河藩主。3代将軍徳川家光の腹心堀田正盛の三男。家光の乳母春日局の養子となり家綱の小姓を務めた。上野安中城主,若年寄を務め1679年老中へ進んだ。5代将軍徳川綱吉から厚い信任を受け,財政専管を命ぜられ,下総古河城主に転じ,大老に昇り13万石を領した。しかし,綱吉の初政期には正俊の補佐の功は大きいと認められたが,やがて権勢が幕臣の反感をよび,また性格が剛直であるため,1684年父の従弟若年寄稲葉正休に城中で刺殺された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「堀田正俊」の解説

堀田正俊 ほった-まさとし

1634-1684 江戸時代前期の大名。
寛永11年11月12日生まれ。堀田正盛(まさもり)の3男。春日局(かすがのつぼね)の養子。徳川家綱につかえ,寛文7年上野(こうずけ)(群馬県)安中藩主となる。延宝7年老中にすすみ,5代将軍綱吉の擁立に功があり,天和(てんな)元年下総(しもうさ)古河(こが)藩(茨城県)13万石を領し,大老となる。貞享(じょうきょう)元年8月28日若年寄の稲葉正休(まさやす)に江戸城中で刺殺された。51歳。私怨(しえん)か公憤か,原因は不明。通称は久太郎。

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旺文社日本史事典 三訂版 「堀田正俊」の解説

堀田正俊
ほったまさとし

1634〜84
江戸前期の幕府大老
若年寄・老中を経て,5代将軍徳川綱吉の擁立に尽力し,その功で大老となり,下総(茨城県)古河 (こが) 藩主(13万石)となった。剛直な性格のため将軍や側近から反感をもたれ,1684年江戸城中で若年寄稲葉正休 (まさやす) に刺殺された。

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367日誕生日大事典 「堀田正俊」の解説

堀田正俊 (ほったまさとし)

生年月日:1634年11月12日
江戸時代前期の大名;大老
1684年没

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世界大百科事典(旧版)内の堀田正俊の言及

【勝手掛】より

…職務は月番を務めるほか勘定所役人への申達,任免,彼らよりの上申を受け,主要なものの額の決定や点検にあたった。勝手掛老中は1680年(延宝8)堀田正俊に従来合議制をとっていた老中執務のうち財政と農政を分離専管させたのが最初。1712年(正徳2)中絶,17年(享保2)復活した。…

【御用部屋】より

…江戸城本丸御殿で,大老・老中・若年寄が執務した部屋。初期は将軍御座間(ござのま)の近くにあったが,老中・若年寄の側近的性格が薄れた中期以降は,1684年(貞享1)大老堀田正俊の刺殺事件をきっかけに,将軍の日常生活空間である中奥(なかおく)から表に移された。大名家の江戸屋敷や藩庁でも,家老が執務する部屋を御用部屋といい,ここで処理された案件を右筆が記録したのが,いわゆる《御用部屋日記》である。…

【天和の治】より

…忠清の免職を手始めに綱吉が実行した施策の一つは,腹心をもって権力の中枢を形成することであった。彼は前代の老中で彼の将軍就任を支持した堀田正俊を大老に取り立てるとともに寵臣を側近に集め,側用人の職を創置して側近の地位を老中同格にまで高め,将軍の意志を忠実に末端まで貫徹させうる機構を形成しようとした。これと並行して,前代に未解決であった越後高田藩の御家騒動(越後騒動)を親裁し,親藩筆頭の越後松平家を取りつぶしたのに引き続き,幕臣に対し仮借なく賞罰厳明の方策を励行した。…

【堀田氏】より

…江戸時代の譜代大名(図)。もと尾張の出身で,1602年(慶長7)正吉のとき,それまで仕えていた小早川氏が断絶して牢人となったが,05年徳川家康から番士に取り立てられた。正吉の長子正盛は3代将軍家光に小姓として仕え,のち若年寄・老中を歴任し,42年(寛永19)下総佐倉藩万石の領主となった。しかし51年(慶安4)正盛は家光に殉死し,跡を継いだ正信は60年(万治3)領地返上の上書を提出して無断で佐倉に帰城したため,所領を没収された。…

※「堀田正俊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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