守口町(読み)もりぐちまち

日本歴史地名大系 「守口町」の解説

守口町
もりぐちまち

[現在地名]守口市竜田通たつたどおり一―二丁目・はま町一―二丁目・来迎らいこう町・北斗ほくと町・八島やしま町・京阪北本通けいはんきたほんどおりほん町一―二丁目・神木かみき町・日光につこう町・さくら町・松月しようげつ町・河原かはら町・寺内じない町一―二丁目・日向ひゆうが町・あかつき町・外島とうじま町など

京街道(東海道)宿場町。現守口市域の西を限る形で曲流する淀川が、東南流から西南流に向きを変える地点の左岸(東岸)に位置する。水陸交通の要地。豊臣秀吉による文禄堤築造(淀川改修)・京街道整備以前から京・大坂を結ぶ街道が通っていたとみられ、また東方讃良さらら郡を通って大和に向かう清滝きよたき街道(当地辺では奈良街道・竜田道とよんだ)の起点でもあった。秀吉による京街道整備後は京・伏見・淀と大坂を結ぶ最短路として街道が利用され、当地はその途中にあって重要性を増し、江戸時代に入って元和二年(一六一六)には幕府道中奉行が管轄する宿駅に指定された。元禄六年(一六九三)五千坪(高二〇石)の地子免許を受け、翌年から守口町が公称となる。

〔中世〕

来迎寺の文書に正平二年(一三四七)「茨田郡拾七ケ所下之仁和寺庄守口村」に一宇を創建したのが来迎寺の始まりという記述があり、これに基づき守口が十七箇所の下仁和寺じゆうしちかしよのしものにんなじ(寝屋川市の仁和寺は「にわじ」)に含まれていたとする考えもあるが、江戸時代に書かれたものなので検討を要する。確実な史料では、正平六年(一三五一)一一月日付の土屋宗直軍忠状(土屋文書)に「守口」とみえるのが早く、伊香賀いかが(現枚方市)の地頭土屋氏が足利直義に従って幕府軍と合戦している。「経覚私要鈔」享徳二年(一四五三)正月八日条には、大庭おおば関に関する記事があり、誉田遠江入道全宝の孫弥五郎について「森口ニ住国之間」とみえる。明応二年(一四九三)の河内御陣図(福智院家文書)にも「森口」が記され、蓮如の末子実従の「私心記」(堺本)天文二年(一五三三)八月四日条には門間かどま(現門真市)に蓮見物に行った帰りを記して「大坂川ヨリ舟ニ乗、もり口ニテ上ル」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報