宇都宮城跡(読み)うつのみやじようあと

日本歴史地名大系 「宇都宮城跡」の解説

宇都宮城跡
うつのみやじようあと

[現在地名]宇都宮市本丸町・中央一―三丁目・同五丁目・旭一―二丁目・中央本町・曲師町・江野町・宮園町・松が峰一―二丁目・一条一―二丁目・河原町・天神一―二丁目・中河原町・三番町

現在の御本丸ごほんまる公園を中心として、東は川、北はかま川にまで広がっていた城跡。中世には宇都宮氏の居城で、大手門は宇都宮大明神に北面していた。天慶三年(九四〇)藤原秀郷が池辺いけのべ田中たなか(現本丸跡)出先の別館を築き、その後康平六年(一〇六三)宇都宮氏の祖藤原宗円が本格的な居館を築いたと伝える(「宇都宮志料」「宇都宮故実抄」など)。近世の宇都宮城の三の丸の範囲までで、ほぼ二町四方の規模で館と東の田川との間には鎌倉への道が通っていたといわれる。南北朝期に堀を広げ、土塁を積み館から三の丸まで備えた城郭へと姿を変えていった。慶長二年(一五九七)の宇都宮氏改易以後は宇都宮藩の藩庁所在地。慶長三年蒲生秀行(一八万石)、同六年奥平家昌(一〇万石)、元和五年(一六一九)本多正純(一五万五千石)、同八年奥平忠昌(一一万石)、寛文八年(一六六八)松平忠弘(一五万石)、天和元年(一六八一)本多忠平(一一万石)、貞享二年(一六八五)奥平昌章(九万石)、元禄一〇年(一六九七)阿部正邦(一〇万石)、宝永七年(一七一〇)戸田忠真(六万七千八〇〇石、のち七万七千石)、寛延二年(一七四九)松平忠祗(六万五千九〇〇石)、安永三年(一七七四)戸田忠寛(七万七千八〇〇石)と城主が代わり、戸田氏の支配が明治まで続いた。

〔近世城郭の形成〕

近世城郭への変貌は蒲生秀行の時代に始まり、元和五年からの本多正純の大改修により、江戸時代末まで続く宇都宮城の姿が完成した。正純はこれまで三の丸までであった城域を、二倍以上に広げ、東は田川、北は釜川までとし、西は松が峰まつがみね外に新たに土塁を築き、南は不動前ふどうまえまで外堀と土塁を拡張した。城の大手と宇都宮大明神が直結していたのを、東西九〇間に及ぶ三日月みかづき堀を作ることによって遮断し、その外郭の堀に大手門を設置した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報