宇山村(読み)うやまむら

日本歴史地名大系 「宇山村」の解説

宇山村
うやまむら

[現在地名]東城町帝釈宇山たいしやくうやま

久代くしろ村の西に位置し、南は神石じんせき相渡あいど(現神石町)三坂みさか村。村内西部をほぼ南西流する宗政むねまさ川は落合おちあい帝釈川に注ぐ。中央部を流れる国清くにきよ川は禅仏寺ぜんぶつじ谷を南流し、三坂村境に出てめん橋の近くで帝釈川に注ぐ。村内東部の水は東流して久代村能楽寺のうらくじ谷に出て為重ためしげ川に注ぐ。集落はこれらの川に沿った谷間の平地や、村内東部の野呂のろとよばれる平坦な石灰岩台地の周辺に散在する。村内には縄文時代の石斧が出土した馬渡上まわたりかみ遺跡や、須恵器土師器の破片が出土する梅平洞窟うめひらどうくつ遺跡、小金峠こがねだわ古墳など八基の古墳が確認されており、古くから開かれていたと考えられる。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳には高五二七石余とあるが、正保三年(一六四六)の地詰帳(「国郡志下調書出帳」所収)で畝数九五町四反余で高四二三石余となり、寛文一二年(一六七二)の新開地詰で畝数八町八反余・一〇石余が付加され、計畝数一〇四町三反余で高四三四石余となった。

宇山村
うやまむら

[現在地名]枚方市宇山町・宇山東うやまひがし町・牧野まきのほん町一―二丁目・下島しもじま町・きた町〉・東牧野ひがしまきの町・招提平野しようだいひらの町・養父丘やぶがおか一―二丁目・養父やぶ西にし町・もと町・ひがし町〉

交野かたの郡に属し、淀川左岸の沖積低地に位置する。西は下島村、北は養父村。延暦二一年(八〇二)坂上田村麻呂が蝦夷の二首長を率いて帰京、二人は八月一三日に斬られたが、その場所を当地に比定する説がある(大日本地名辞書・大阪府全志)。この場所は「日本紀略」無窮会神習文庫本には「河内国植山」とみえるが、久邇宮家旧蔵本には「河内国杜山」、鴨県主祐之清書本には「河内国椙山」とみえるなど、写本によって異同があり検討を要する。

宇山村
うやまむら

[現在地名]河内町宇山

戸野との村の東に位置し、世羅台地の西端を戸野川(沼田川)の支流が浸食して形成した狭い谷沿いに主な農耕地が展開する。古代末期から中世には沼田ぬた新庄に属し、当村に一分地頭として入った上山小早川家は、和木小早川家からの分れである(小早川家系図)

当地は仁治四年(一二四三)二月日付安芸沼田新庄方正検注目録写(小早川家文書)上山うやまにあたり、九町九反一五〇歩のうち除田九反一二〇歩・定田九町三〇歩、所当米一九石七斗四升五合のうち公物一二石九斗一升六合、地頭得分は地頭給一反一二〇歩と所当米の地頭分が六石八斗二升九合であった。

宇山村
うやまむら

[現在地名]福山市春日かすが町宇山

四方を山に囲まれ、わずかに南方いち村から蔵王ざおう山の背後を山越しに安那やすな下竹田しもたけだ(現深安郡神辺町)に向かう道と、浦上うらかみ村から谷をさかのぼって宇山に入る道が開かれるのみで、孤立した山間の高原状の小盆地内に集落が形成されている。しかし、畑から磨製石斧が採集され、弥生時代にすでに住民がこの盆地に入っていたことを証している。横穴式石室をもつ古墳も三基残存。発掘調査の結果、別当べつとう三号墳はすでに盗掘にあったもので遺物は土師器と鉄釘が出土、須恵器使用以前の古墳で棺床の礎石と鉄釘は木棺の存在を推定させた。

宇山村
うやまむら

[現在地名]立科町宇山

山部やまべ村の西丘陵上に立地。枝郷蟹窪かにくぼを経て、長窪古ながくぼふる(現小県郡長門町)に通じる道は大内道おおないどといわれ、中山道笠取かさとり峠道以前の佐久川西地方と小県地方を結ぶ有力な古道。また深山みやま(現小県郡丸子町)を経て丸子に至る道もある。元禄二年(一六八九)四月の国絵図郷帳仕上触芦田村書上(土屋伝氏蔵)に「宇山村芦田村ヨリ酉之方道法二拾丁拾七間」とある。

水利極めて悪く沢水を利用していたが、寛永―慶安年間(一六二四―五二)芦田あした村の土屋庄蔵と遠山長作が、蓼科たてしな山の山腹依田よだ川の源流もみより六里余の水路を開き、これを受けて承応―万治年間(一六五二―六一)八重原堰やえばらせぎの開削者黒沢加兵衛が補強完成させた(「水田水路志」北佐久郡志)宇山堰うやませぎがある。

宇山村
うやまむら

[現在地名]洲本市宇山一―三丁目・宇山・塩屋しおや二丁目

塩屋村・炬口たけのくち浦の西、洲本川左岸にあり、北部は武山たけやま山地となる。津名つな郡に属し、対岸は下物部しもものべ村。正保国絵図に村名がみえ、高二八四石余。天保郷帳では高三三五石余。千草組に属した。反別戸数取調書によれば反別三一町七反余、高四八三石余、うち蔵入高五石余、四七六石余が稲田九郎兵衛の給知。炬口八幡社領一反余があった。家数一〇三・人数一九四。寛政(一七八九―一八〇一)以後洲本川に高屋たかや橋、千草ちくさ川合流点に三合みつあい橋が架橋されて(「寛政須本城邑図」淡路文化史料館蔵)、洲本府の宇山口が整備され、宇山口から根頃ねごろ峠を越えて中川原なかがわら村の町送り場へ続く道が洲本府から岩屋いわや(現淡路町)への主要道として重要視された。

宇山村
うやまむら

[現在地名]中村市右山うやま右山五月うやまさつき町・右山天神うやまてんじん町・右山元うやまもと町一―三丁目・駅前えきまえ町・大橋通おおはしどおり六―七丁目

中村の南、うしろ川と四万十しまんと川の合流点上流、後川に面した村で「土佐州郡志」は「東西四町余南北十五町、東有後川、西有不破界西山」と記す。地名は建武二年(一三三五)四月七日付権少僧都心慶下知状(「蠧簡集」所収金剛福寺文書)に「香山寺供田畠内南仏房領作分」の一として「ウ山ノクヱキシ灯油田」とみえる。一条氏の町づくりの際、右山を京の右京になぞらえたともいう。

天正一七年(一五八九)の中村郷地検帳には「宇山小船」「宇山須崎」また単に「宇山」とみえ、以上の地域の検地面積は四九町一反余、屋敷数三五うち居屋敷二一(太平寺を含む)

宇山村
うやまむら

[現在地名]総社市宇山

美袋みなぎ村の北に位置する。寛永備中国絵図では高一三六石余、松山藩領。正保郷帳でも同高、同藩領。枝村としてくいぜ村を記す。元禄六年(一六九三)松山藩主水谷氏断絶により、収公されて検地を受けた。同八年の検地帳(旧昭和町役場所蔵文書)によれば高二七五石余、反別は田一六町七反余・畑一三町四反余、屋敷六反三畝余、小物成として楮・茶につき銀を出している。山林は一五筆五七町余、うち牛飼草取場が一〇筆四二町余であった。同年の旧松山領新高帳(羽場文書)に古高二一七石余とある。同年松山藩領に戻り幕末に至る。延宝八年(一六八〇)東南の日羽ひわ村との入会山境界相論に際し、「南ハくれを谷切、西ハ川へむき申平」を境として覚書(大月文書)を交わしているが、元禄八年の検地でこの協定が反古となった。

宇山村
うやまむら

[現在地名]新見市豊永宇山とよながうやま

草間くさま村の東、石灰岩台地の豊永台地に立地し、西端を佐伏さぶし川が南流。大草おおくさ中村なかむら矢中やなか本村ほんむら先村さきむら正山しようやまの集落がある。寛永備中国絵図に村名がみえ、高一九八石余、松山藩領(以後の領主の変遷は足見村に同じ)。正保郷帳では一九七石余、雑木少・柴山小・芝草山大と記され、枝村として宮地みやじ村をあげる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報