妻木村(読み)つまぎむら

日本歴史地名大系 「妻木村」の解説

妻木村
つまぎむら

[現在地名]土岐市妻木町

妻木川が村の中央を北へ流れ、須後すご川・鍛冶かじ川などが合流する。北は同じ盆地内の下石おろし村。「華頂要略」門主伝補遺の建長元年(一二四九)九月七日条に「妻木保」とみえる。慶長郷帳では高一千三〇〇石余、元和二年(一六一六)の村高領知改帳では旗本妻木玄蕃頭領、同七年の検地帳(八幡神社蔵)の一部が残り、同帳では田高三四三石余・畑高一〇二石余となっている。正保郷帳では田高一千一七六石余・畑高一六〇石余、ほかに小物成米(山年貢)五石余、松山・柴山草山草野がある。承応二年(一六五三)妻木頼次は遺領相続の際五〇〇石(上郷)を弟幸広に分知。万治元年(一六五八)頼次死去により嗣子なく知行地没収となったが、当村は同氏ゆかりの地として分知分はそのまま幸広に与えられた。

妻木村
むきむら

[現在地名]大山町妻木

富岡とみおか村の北にあり、北は稲光いなみつ村。南を妻木川が西流する。地名は「つまき」ともよんだとされ、その由来について、「伯耆民諺記」によると当地の老夫婦が神社に祈願し女子に恵まれ、その女子が成人したのち都へ上って天皇の女御となった。以後当地の夫役は免ぜられることとなり、天皇から賜った歌にちなみ妻来つまき里と改められたという。

妻木村
さいきむら

[現在地名]桜村妻木・天久保あまくぼ一―四丁目

花室はなむろ川右岸にあり、北は柴崎しばさき村。才木とも記す(新編常陸国誌)。江戸初期は麻生藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。その後旗本領(一部は府中藩領)となった。元禄郷帳の村高は五二二石余。幕末は本多滝之介の知行地が五〇二・一三七石、府中(石岡)藩領が八三・七一石、計五八五・八四七石(各村旧高簿)。「新編常陸国誌」によれば、村はみなみ西にしだい大地だいおうじの四坪に分れていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報