太田新田(読み)おおたしんでん

日本歴史地名大系 「太田新田」の解説

太田新田
おおたしんでん

[現在地名]波崎町太田

利根川左岸にあり、東は須田すだ新田、南は矢田部やたべ村。延享二年(一七四五)幕府代官鈴木小右衛門は江戸麻布の人といわれる太田宗助に矢田部村日川につかわ(現神栖町)の新田開発を命じた。同四年には開発が進展して相当の入百姓があったらしく、入百姓祈祷寺として日蓮宗長照ちようしよう寺を上総から引寺している(「太田新田へ引寺につき請証文」太田家文書)。宝暦一三年(一七六三)八月には新田検地を受けることとなり、太田新田検地請状(太田家文書)によれば、署名した人数は四二人で、青山市左衛門の当座預地とされた。同年一二月の太田新田検地総寄帳(同文書)によると、田畑の反別は三一一町余で、ほかに秣銭場二〇〇町、漁場肥揚場一二〇町があり、村高は三一二石余とみえる。

太田新田
おおたしんでん

[現在地名]東根市太田新田

みだれ川扇状地扇頂部にあたる。村内を村山野むらやまの川が西流し、北の対岸野川のがわ村、西は中島なかじま新田。村名は開発者の姓にちなむ。初め幕府領、安政二年(一八五五)以降松前藩領。後沢うしろざわ村の太田幾右衛門が野川村地内の西原にしばら向原むかいばらの一部を開墾し、天保六年(一八三五)東根代官大貫次右衛門の検地によって村立て、手代大越小右衛門ほか三名が六尺一分の間竿で検地し、高二七石余、反別一七町三反余(北村山郡史)

太田新田
おおたしんでん

[現在地名]新発田市太田新田

下興野しもごうや村の西北にあり、北蓑口きたみのぐち村の枝郷であった。村内を太田川(旧太田川)が西流する。明暦元年(一六五五)に開発されたと伝え、寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)に一一戸・五〇人とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android