太田保(読み)おおたほ

日本歴史地名大系 「太田保」の解説

太田保
おおたほ

常願寺川扇状地、現富山市の南半分と熊野くまの川左岸に至る現上新川かみにいかわ大山おおやま町の平野部および周辺山麓部に比定され、広大な国衙領を起源とする。大田とも記される。近世の比定地の村々は富山藩領を太田保、加賀藩領を太田庄と呼び分けていたが(「三州地理志稿」など)、中世の太田保は両者を合せた地域と考えられる。中世においても太田庄の呼称が「後愚昧記」や、永正一七年(一五二〇)とみられる一二月二二日の長尾為景感状(上杉家文書)などに若干みえるが、多くの管領細川氏関係史料には太田保と記されており、太田庄は太田保と異なるものではないと思われる。

〔成立過程〕

開発の始まった時期ははっきりしないが、一二世紀初頭に在庁官人の流れをくむ太田氏による私領化が進んだとみられる。太田氏の祖は京都山科やましな(現京都市山科区)の豪族宮道氏で(「蜷川系図」寛永諸家系図伝)、「今昔物語集」などには藤原北家の高藤と宮道弥益の娘との間に生れた胤子が宇多天皇に入内し、やがて醍醐天皇母となったという説話がみられる。以来宮道氏は高藤の子孫勧修寺氏の家司化し、院政期に入って白河上皇の下で院司などとして勢力を得るようになった。ことに藤原顕隆の時代、大治元年(一一二六)から保延三年(一一三七)にかけて越中国衙支配にかかわり、国衙在庁官人として下向した宮道氏は越中で開発領主として太田保や新川郡堀江ほりえ(堀江庄、現滑川市)などを私領化し、在地領主に成長していった。

現滋賀県甲賀こうか信楽しがらき玉桂ぎよくけい寺蔵の阿弥陀如来立像胎内文書の一点で、建暦二年(一二一二)に記された「越中国百万遍勤修人名」と題される法然への結縁交名に四千人近い越中関係念仏者がみえ、そのなかに宮道氏が一六名も登場している。この史料は法然系の念仏者が国衙支配機構を介して越中に浸透していったことを示すが、同時に宮道氏が依然として越中国衙と密接な関係を持続けていたことをうかがわせる。前掲蜷川系図によれば、宮道氏を祖とする太田氏や蜷川氏にあって、太田氏の祖は宮道式宗とされる。一二世紀後半の人物であるらしいが、「越中国百万遍勤修人名」にも同一名がみられ、蜷川系図に史料的信頼性があるように思われる。

〔関東御家人太田氏〕

「白山宮荘厳講中記録」建保三年(一二一五)条に蔵人所絵師覚賢が描いた白山神像を「供養以後、越中大田ニ相知女房ニヒホクムテ、可令施入之由」とあり、これが太田の地名の初見とされる。鎌倉期には金沢文庫蔵「御影供導師次第」紙背文書に「大田ノ保」とみえる。

太田保
おおたほ

越路こしじ町北部に所在し、渋海しぶみ川の川谷を保域とする。天正七年(一五七九)二月日付の刈羽郡赤田あかだ(現刈羽村)城主斎藤朝信の制札(白井文書)に「太田保内無道狼藉不可致之事」とある。近世期に成った岩田村鏡根本(同文書)には、かつて越路町岩田いわだ地内の山城勝平かつひら城に拠った大田殿が岩田に常の館を構え支配していたという伝えを載せる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android