天野喜四郎(読み)あまの・きしろう

朝日日本歴史人物事典 「天野喜四郎」の解説

天野喜四郎

没年:宝暦6.12.29(1757.2.17)
生年:生年不詳
江戸中期,伊予多喜浜塩田(新居浜市)の開拓者。名は元明。備後御調郡吉和浜(尾道市)生まれ。信濃(長野県)出身の深尾権太夫による享保5(1720)年の干拓失敗のあと西条藩に招かれて移住し,藩と連絡をとり同志5名と共に,享保9年工費118貫を投じ11浜(約15町歩)を開いた。同18年には275貫余をもって,享保飢饉の難民救済策を兼ねて27町歩余の塩田を干拓した。子の喜四郎も宝暦9(1759)年から久貢新田・郷・松神子(新居浜市)の地先に塩田,畑合わせて104町歩,文化6(1809)年には4代喜四郎が北浜新開40町歩を築造,慶応1(1865)年には5代6代の親子喜四郎が40町歩の塩田を開いた。6代200年間に240町歩(約238ha)の多喜浜塩田が形成された。<参考文献>天野元敬『多喜浜塩田史』

(廣山堯道)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「天野喜四郎」の解説

天野喜四郎 あまの-きしろう

?-1757* 江戸時代中期の塩田開拓者。
享保(きょうほう)8年(1723)伊予(いよ)(愛媛県)黒島村の村役らにまねかれ,西条藩の許可をえて多喜浜塩田をひらく。その功により永世庄屋元締役,薪塩の問屋となる。その業は子孫にうけつがれ,6代目で240haの塩田が完成した。宝暦6年12月29日死去。備後(びんご)(広島県)出身。名は元明。

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